『マトリックス』シリーズとは何だったのか 『レザレクションズ』に込められたメッセージ
そんなネオたちの戦いを描く本作に対し、不満をうったえる観客がこぞって指摘するのは、これまでのシリーズにあったような印象的なアクションが少ないという点である。1999年に凄まじい数のカメラを被写体の周りにズラッと配するという通称「マシンガン撮影」によって「バレットタイム」と呼ばれる、斬新な映像表現を達成したような技術的挑戦への情熱は、たしかに本作では弱いと感じられる。しかし、じつはその批判を先回りした反論が、すでに本編の中で展開されているのである。
それは、仮想世界の中で行われている、ゲーム会社のブレーンたちによる企画会議の模様だ。集まったスタッフたちは、ゲーム『マトリックス』新作の構想を練るために、これまでの『マトリックス』の本質とは何だったのかを議論している。その中では「バレットタイム」などへの言及もあるが、これが仮想世界の出来事だということが象徴しているように、それらの意見は全部“的外れ”であると、本シリーズのラナ・ウォシャウスキー監督は宣言しているのである。
あの「バレットタイム」が『マトリックス』の本質ではない……ならば、『マトリックス』を『マトリックス』足らしめているものとは何なのか。本作は、そんな『マトリックス』シリーズの監督の側からの補足的説明にもなっているのである。だからこそ、本作には何度も、これまでのシリーズの場面が引用されているのだ。
監督の考える『マトリックス』とは、本作の内容が、ふたたび“仮想世界から脱出すること”を焦点にしていることが、雄弁に物語っている。そこに込められているのは、“既存の価値観から脱して自由な意志を持って生きよう”という考え方である。それがなければ、『マトリックス』は『マトリックス』でいられないのだ。そこに集中したかったからこそ本作は、画期的なアクションを追求するようなものにならなかったのだろう。
かつて「ウォシャウスキー“兄弟”」と呼ばれた二人の監督は、『マトリックス』トリロジーが終了したのち、トランスジェンダーとして改名することとなった。そしてトランスジェンダーについての要素が、じつはシリーズの中に散りばめられていたという事実をも明かしている。『マトリックス』における、“これまでの常識を破り、本当の自分になる”というテーマと命懸けの戦いは、二人の現実の葛藤と闘争に重ねられていたのだ。
といっても『マトリックス』シリーズが、性を転換する人たちの闘いのみを描く映画だったという話ではないだろう。二人にとっての現実の課題が、性の転換と、そのカミングアウトなどであったように、それぞれ多様な問題を抱えている観客へ向け、画一的で抑圧的な価値観によって本来の自分が殺されようとする現実に抵抗する力を与えようとするのが、シリーズの本意だったのである。ネオたちのバトルがあくまで高潔に、スタイリッシュに表現されていたのは、それが“自分自身の本来のスタイルを守る”ための戦いだったからなのではないか。
監督がこれまでに表現したのは、ゲームや映画の中に収まるバトルなどではなく、“現実の闘い”そのものであり、それは一つの革命行為でもあった。しかし、時代の移り変わりや、依然として偏見や差別が渦巻く社会、一部観客の無理解などによって、そんな魂を込めた作品でさえも、いつしか気晴らしのための“コンテンツ”として、『マトリックス』シリーズは日常を麻痺させる凡庸な一要員にされてしまったところがある。本作でネオに「ゲームにされてしまった」と言わせたのは、そんな状況に対する反発であろう。