『ヴェノム』にケリー・ライカート作品も ミシェル・ウィリアムズの演技に宿る不完全な美

ミシェル・ウィリアムズの演技に宿る美しさ

視線による寄生

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(c)2021 CTMG. (c)& TM 2021 MARVEL. All Rights Reserved.

 当初、『スパイダーマン』シリーズのスピンオフとして企画された『ヴェノム』(ルーベン・フライシャー監督/2018年)は、特にサム・ライミの手掛けた『スパイダーマン』3部作が放っていた、見てはいけないものが不意に映ってしまったかのような「影」が、エディ・ブロック(トム・ハーディ)とヴェノムから繰り出されるユーモアの仮面の下に滲んでいる傑作だった。また、サム・ライミ版の『スパイダーマン』による跳躍が、跳躍そのものの快感、画面の運動の快感を描くことに徹していたように、『ヴェノム』のアクションは極めて快楽的に描かれていた。その点でも前作は、正しくサム・ライミの意匠を継承する作品だったといえる。

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(c)2021 CTMG. (c)& TM 2021 MARVEL. All Rights Reserved.

 この中でヒロインを務めるミシェル・ウィリアムズは、何者にでもなれるレンジの広さを披露している。相思相愛の関係ともいえる『ウェンディ&ルーシー』(2008年)から続くケリー・ライカート監督との一連の作品で、荒野に解き放たれたヒロインを務めたことが信じられなくなるほどの幅の広さだ。ミシェル・ウィリアムズは、何者にでもなれる。マーベル映画やミュージカル映画のヒロインに留まらず、マリリン・モンローにだってなれてしまう。アメリカの荒野に解き放たれた野良犬のようなヒロインにだってなれる。映画の中の彼女は、どんな役を演じてもウソとは言わせない。たとえどんなシチュエーションであってもチューニングを合わせてしまえる楽器であるかのように、ミシェル・ウィリアムズは、その身体に「映画の説得力」を持たせてしまう。

 トム・ハーディが原案から関わった新作『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(アンディ・サーキス監督/2021年)は、エディとヴェノムの「共生」に焦点が当てられている。この新作でも魅力的なのは、エディとヴェノムとアン(ミシェル・ウィリアムズ)による三角関係が、嫉妬を誘発させながらコミカルに描かれているところだ。

『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』(c)2021 CTMG. (c)& TM 2021 MARVEL. All Rights Reserved.

 前作でもそうだったように、ヴェノムがエディの体内から離れて、アンに寄生するシーンが素晴らしい。ヴェノムは、エディの元恋人であるアンに間違いなく恋をしている。ヴェノムはアンの魅力に心を奪われている。しかしアンはエディと寄りを戻すつもりがない。エディとヴェノムによるアンへの恋愛感情は、アンの意思によって付かず離れずの距離感を強いられるが、むしろそのことが3人による新たな形の「結婚」として、もしかすると恋愛関係より深いかもしれない連帯を呼び起こしている。

 ミシェル・ウィリアムズは、一人で佇み、窓の外へ視線をやるとき、または相手の視線と交わらないときに、その表情が単数ではなく複数の感情を放ってしまう特異な俳優であることを、これまでに多くの作品で証明してきた。しかし、本作では相手の瞳を覗き込むような彼女の視線が、対面する相手の心を吸い取っていくという意味で、ある意味ヴェノムによる体への寄生と共鳴するような、「視線による寄生」として披露されているのが面白い。ヴェノムは相手の体に寄生するが、アンは相手の心に寄生する。

歩行せよ、と彼女は言う

『ウェンディ&ルーシー』(c)2008 Field Guide Films LLC

「ケリー(・ライカート)のことを知ることは、映画の教育のようなものだと思っています。彼女が私に教えようとしたわけではありませんが、それは浸透していきます。彼女の友人であり、彼女の好きなものを理解し、参考になる映画を教えてもらい、自分でもそれを探すことで、今のところ彼女のフレームを埋める方法を知っているような気がしています。彼女が何を望んでいるのか、何に夢中なのか。彼女の好みも分かっています。ケリーと一緒に仕事をするときには制限があります。彼女が求めているスタイルは厳格に決まっています。その制限の中では、特殊であるがゆえに実際にはとても大きな自由が得られるのです」※1

 『ウェンディ&ルーシー』(2008年)、『ミークス・カットオフ』(2010年)、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(2016年)と3作品のコラボレーションしたケリー・ライカート監督に関して、ミシェル・ウィリアムズは、その関係を「結婚」に例えている(次回作もミシェル・ウィリアムズの出演が決まっている)。ミシェル・ウィリアムズという俳優の凄さが最高密度で発揮されているといえるケリー・ライカートとの作品群。そのイメージは、愛犬のルーシーと共にアラスカの地へ向かう『ウェンディ&ルーシー』から始まる。

『ウェンディ&ルーシー』
『ウェンディ&ルーシー』(c)2008 Field Guide Films LLC

 突如アメリカの路上に放り投げられたかのような、このウェンディのイメージは、それ以前にヴィム・ヴェンダースがアメリカで撮った『ランド・オブ・プレンティ』(2004年)で演じたヒロインのイメージをどこか想起させる。ミシェル・ウィリアムズの持つ少年のような魅力と、まなざしの放つ複層性を最初に作品に焼き付けたのはヴィム・ヴェンダースだろう。『ランド・オブ・プレンティ』のラナは、アメリカ国旗を風になびかせたバンでアメリカの荒野を走り抜ける。その意匠を引き継ぐかのようにケリー・ライカートは、ミシェル・ウィリアムズをアメリカの荒野へ解き放ち、その孤立した肖像をフィルムに焼き付けていく。

『ウェンディ&ルーシー』(c)2008 Field Guide Films LLC

 路上生活の中でウェンディは感情を押し殺すように努めているが、その内面には明確な悔しさが渦巻いている。たとえばルーシーのためのドッグフードを万引きして詰問されるシーンにおける、ウェンディのまなざし。車の高額な修理費を言い渡されたときの瞳の開き方。ケリー・ライカートとミシェル・ウィリアムズは、ウェンディの悔しさ、怒りを素描する際、一旦カメラに背を向けさせ、彼女が発見してしまった悔しさとのファーストインパクトをどこかに逃がす。その後、改めて向き直すことで、それはウェンディの諦めきれない表情として、こちらに向けられる。反復されるウェンディの鼻歌は、押し殺されてしまった悔しさを無形のものとして、寂しいアメリカの荒野に浸透させていく。

『ミークス・カットオフ』(c)2010 by Thunderegg,LLC.

 感情の発見という点において、『ウェンディ&ルーシー』を悔しさの発見とするならば、『ミークス・カットオフ』は怒りの発見であり、続く『ライフ・ゴーズ・オン』は失望の発見だ。「ロスト」という文字が刻まれた、終わりのない砂漠での彷徨。『ミークス・カットオフ』で、ミシェル・ウィリアムズ演じるエミリーは「女は混沌、男は破壊」とミークに言い放たれる。相手にする価値すらない戯言を言い放たれたかのように、表情を変えず冷静に応対するエミリー。しかし、その内面には、相手への軽蔑と怒りが明確に渦巻いている。このシーンにおいて、エミリーが言い返したかった言葉を代弁するならば、「男は(あなたは)“無意味な”破壊」というところだろう。劇中、ほとんど男性と関係を結ばないエミリーが、唯一関係を結ぶのが、水場への案内人として人質にとられたネイティブ・アメリカンの底の抜けた靴を縫ってあげるシーンで、このシーンにはスピリチュアルにして例外的な艶めかしさがある。エミリーは男たちへの怒りを、出来ることなら管理を放棄したい管理者であるかのように知りつくしているが、だからこそ、この未知なる男性の存在にスピリチュアルな共感を微かに感じている。エミリーは怒りを知っているが、フィルムは彼女の怒りと恐怖を発見する。そのエミリーが銃を手に取る三つ巴のシーンは、本作のハイライトだ。

『ミークス・カットオフ』(c)2010 by Thunderegg,LLC.

 そして『ライフ・ゴーズ・オン』のジーナ(ミシェル・ウィリアムズ)は失望を発見する。それぞれの女性を描いたこの3つの短編で構成された珠玉の作品の第2話にミシェル・ウィリアムズは出演している。ジーナの生活は、前2作のヒロインのような決定的な孤独を抱えてはいないように見えるが、彼女が窓の外に向けるまなざしは、これまでのヒロインが抱えていたものと同様であり、それはジーナが手を振った先にいる男性が窓枠から消えてしまうという美しいショットによって決定的なものとなる。ミシェル・ウィリアムズは、この短い尺の中で前2作で演じたウェンディとエミリーの人格がジーナに宿っていること、さらにその先にある来たるべき感情を凝縮してみせる。まったくもって見事というほかない。

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