『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は腐敗した大人社会と生徒の訣別を描く重要作

『不死鳥の騎士団』にみる、子供たちの独立

 つくづく、ホグワーツの生徒は命がいくつあっても足りないと思う。入学早々、ハロウィンにはトロールが校内に侵入してくるし、学校の敷地内には人食い蜘蛛の群れが住む禁じられた森がある。禁じるならちゃんと入れないようにしておいてほしい。学校のカリキュラムも、問題ばかりだ。『ハリー・ポッターと秘密の部屋』では、耳当てをしていてもその悲鳴を聞けば失神してしまうマンドレイクの根の鉢替えをする授業があったり(成長した根の場合、死ぬ)、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』では無闇に近づくと骨折レベルの怪我を負ってしまう魔法生物に触れる授業があったり。ハグリッドのことは大好きだけど「かすり傷」として医務室にすぐ連れていく考えに至らないのが怖いし、マルフォイは嫌なやつだけど「死んじゃうよ〜」という悲痛の訴えには同情してしまった。ハグリッドはこのとき先生になりたてだからしょうがないとも思うかもしれないが、ベテランだってホグワーツ教師陣はまあまあ酷い。

 印象深いのが、『ハリー・ポッターと賢者の石』のほうきの授業。鷹のような目が印象的で見た目がかなりクールで、めちゃくちゃ頼れる姉御臭漂うマダム・フーチが教鞭をとる飛行術のクラスで、ネビルが箒を暴走させて怪我をするのだ。このとき、フーチはネビルが飛行してすぐに自分も空を飛んで助ければいいのに、他の生徒と一緒に地上で「ネビル! 降りてきなさい!」と声をかけることしかしない。極め付けに、暴走するネビルが生徒らに突っ込みそうになったとき、一瞬彼らを庇うように前に出て杖をかざすも、秒で生徒を見捨ててネビルを避ける。その動きの速さに、毎回見るたびに笑わされて仕方ない。大人になって『ハリー・ポッター』シリーズを観ると、悲しい宿命を背負ったハリーに限らず、多くの生徒が子供に優しくない環境で何とか立派な魔法使いになろうと奮闘していたことがわかる。なんて世知辛いんだ。

 5作目にあたる『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』は、まさにそんな彼らの置かれた状況の過酷さを理解するのにふさわしい一作である。

 本作は冒頭から、大人が不在の状況で子供(ハリーとダドリー)に危険が及ぶ。ディメンターを追い払った直後、二人の前に現れたのは近所に住むフィッグさんだ。実は不死鳥の騎士団の関係者であり、ダンブルドアの命でハリーを見守っていた彼女。「どうせ近くでハリーの動向を探っていたのなら襲われる前に助けてくれよ」と思うわけだが、映画で語られていない事実として彼女は“スクイブ”であり、魔法が使えないのだ(杖の所持も禁止されている)。つまり彼女はただの老婆でしかなく、あの場でハリーたちを“助けたくても助けられない”のであった。この「非力な大人が子供を救えない状況」というのは、『不死鳥の騎士団』という映画全体に通じる象徴的なテーマである。

 本作には何を隠そう、闇の帝王に並ぶ凶悪さとそれに勝る憎たらしさでお馴染みのドローレス・アンブリッジが登場する。魔法大臣付上級次官であった彼女は、魔法省からの“ホグワーツ改革”のお達しの一環として例の「闇の魔術に対する防衛術」の教師として派遣されるのだ。体罰も平気でするし、どんどん魔法省の権力をかざして自分とスリザリン(出身寮)が都合の良いように学校を牛耳っていく。「PTAが黙っちゃいないぞ!」と憤慨するシーンも多いわけだが、なにせそのPTA、つまり子供を守る力を持つ大人が不在なのだ。

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