ジェーン・カンピオンの堂々とした到達点 『パワー・オブ・ザ・ドッグ』にみる“革命の力”

 フィルとブロンコの関係がどんなものだったのかを暗示するのが、農場から眺めることのできる山の光景である。フィルはカウボーイたちに、「山に何があるか見えるか」と、問いかける。だが、その場の誰も、山肌に“あるもの”が存在していることを認知できない。また、弟のジョージもそれを理解することができなかったのだという。ブロンコは、かつてフィルにだけその秘密を教え、自分たちだけが見ることのできる風景を味わっていたのだ。

 “男性が男性を愛する”という性的指向が、ここである種の特権性、または異能のようなものとして語られている。ブロンコがフィルに、他人には見えないものが見られるよう“教えた”というイメージは、そのまま二人の性的な関係性を暗示しているといえよう。だが、ローズの連れ子である青年ピーターは、農場にやってきた日からすでに、山に存在する“あるもの”に気づいていたのだという。その話を聞いたフィルは衝撃を受け、強くピーターを意識することになるのだ。

 この後、物語は急展開を見せ、ジェーン・カンピオン監督らしい、文学的ながらも娯楽的な要素を持ったサスペンス映画であったことが明らかになっていく。ここでは、未見の読者のために、その顛末を語ることを避けることにするが、ラストにたどり着いたとき、あらゆる描写は作品世界の雰囲気を醸成するためだけでなく、細かな部分にも伏線やテーマに繋がる要素が張りめぐらされていたことに気づき、本作が非常に無駄のない職人的な映画でもあったことが理解できるだろう。

 さて、本作のタイトルである「犬の力(パワー・オブ・ザ・ドッグ)」とは何だったのか。それは旧約聖書における、「我が神、我が神よ、 なぜ私をお見捨てになるのですか。 なぜ遠く離れ私を助けずに、 私の言葉を聞こうとされないのですか」という言葉から始まる、旧約聖書「詩篇22」からの引用である。

 ユダヤ教とキリスト教の共通の聖典である旧約聖書における詩篇は、ダビデ王の言葉を扱ったものが多いが、この箇所についてキリスト教の人々の立場からは、イエス・キリストの存在を預言する内容になっていると考えられている。その解釈で続きを読むと、この記述は、ローマ兵たちに虐待され処刑されようとするイエスが、神に語りかける場面を想起させるのだ。

「犬は私の周りを囲み、 悪人の群れが私の手と足を刺し貫いた」

「神よ、遠く離れないでください。 私をお救いください。 私の魂を剣(つるぎ)の力から、 そして私の命を犬の力から助け出してください」

 ここでいう「剣の力」、「犬の力」とは、武器を持ったローマ兵、もしくはイエスを敵対視していた当時の宗教派閥“サドカイ派”のことだと解釈できる。キリスト教の信者でない立場から見ても、他の宗教派閥が脅威だとして、一人の宗教指導者を十字架にかけさせ、むごたらしく殺害する行為は蛮行だと思える。

 だがキリストは、キリスト教の聖典「新約聖書」のなかで、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」と、自分を拷問するローマ兵の魂を救うために祈るのだ。無知が彼らを蛮行に走らせているのだと。

 本作『パワー・オブ・ザ・ドッグ』にも象徴的なシーンがある。フィルをはじめカウボーイたちは、紙を切って花のような飾りを作るようなピーターを大声で嘲笑したり、馬に乗って周りを取り囲んで走り回るなど、侮蔑的で危険な行為をする。それはまさに、「犬の力」である。

 現在ですら同様の偏見があるのだから、1925年当時のモンタナ州の農場で、中性的な感性を発揮する男性が侮辱され弾圧されるのは、当然といえば当然なのかもしれない。多くの人々が、“男は男らしく、女は女らしく”という社会観を持って育っているために、ある種の人々を弾圧し、その魂を殺すような行為をしたとしても、そんなことは当たり前だし、むしろ自分の側に理があると思っているのである。まさに、偏見に満ちた社会を背景に「自分が何をしているのか分からない」という状況だ。

 つまり本作では、“本来なら謂れのない罪を着せられ弾圧される存在”という意味で、同性愛者とキリストが重ね合わされているのだ。知っての通り、そんな偏見や差別は現在の社会にも根強く存在している。キリストが存在していた、はるかな昔や、1925年のアメリカ、そして現在の社会までを射程にとらえながら、被差別者たちが歴史的に数多く存在し、様々な苦しみを味わっていることを、本作はあらためて告発するのである。

 偏見の犠牲になったのはピーターだけではない。ピーターを攻撃していたフィルでさえも差別を恐れ、もうこの世にはいないブロンコ以外、誰にも自分の性的指向を話すことができずに、ずっと苦しんでいたのである。彼はそのことを隠すため、わざと粗野な男として振る舞い、弟夫婦やピーターに憎しみをぶつけていたのだ。被差別者が差別主義者として加害する側にまわるという行動は、自分を守るための屈折した心理状態として、性的指向に限らず、性別や人種など様々なケースで見られるものである。もともとは、そういった状況を生んだ社会そのものに問題の根がある。とはいえ、それがその人物の加害行為を免責することにはならないだろう。

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