その歩みは香港アクション映画の歴史である アクション監督・谷垣健治の波乱万丈の足跡

 「谷垣健治」この名前は覚えておいて損はないと思う。谷垣さんは今や日本映画界になくてはならない人物であり、あと数十年後に日本映画の歴史を振り返ったとき、確実にキーマンの1人として名前が挙がる人物だからだ。アクション監督として幾多の話題作を手掛け、特に『るろうに剣心』シリーズ(2012年~)の成功は、谷垣さんなしではありえなかっただろう。日本を舞台にしたハリウッド映画『G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ』(2021年)にも参加するなど、活躍の場は世界へ広がっている。まさに日本を代表する映画人の1人だが、その道のりは決して平坦ではなかった。谷垣さんはメチャクチャな苦労人である(というか今も苦労している)。これは私が観客として、谷垣さんがスタントマンとして高所から落下するところや、いろんなアクションスターにブン殴られているのを見てきたから断言できる。たくさんの映画で「あっ! 今、ブン殴られたの谷垣さんだ!」と度々アハ体験を繰り返したものだ。谷垣さんは『アクション映画バカ一代』という自伝を出しているが、まさにアクション映画に全てを捧げた男であり、苦労を買いすぎた男なのである。今回は谷垣健治という男の波乱万丈の足跡を辿ってみたい。

 谷垣健治さん、御年51歳。まずはその人生を著作『香港電影 燃えよ!スタントマン』と『アクション映画バカ一代』から整理していこう。谷垣さんは子どもの頃は病弱だったが、成長するにつれ、むしろ活発な少年へと変わっていき、やがてジャッキー・チェン主演の『スネーキーモンキー 蛇拳』(1978年)でアクション映画の洗礼を受ける。かくして多くの少年がそうするように、教室の片隅で蛇拳ごっこに徹する谷垣少年だったが……。この頃について回想する、本人の鮮烈な一文を引用したい。

(中略)みんなは興味がだんだんなくなって、また新しいものに夢中になったのに対して、ぼくだけずーっとそのままで、香港映画が好きなまま成人して、とうとうそれを本職にしてしまったことだ。――『香港電影 燃えよ!スタントマン』(1998年)より引用

 谷垣少年はジャッキーへの強烈な憧れを抱いて、高校時代には少林寺拳法に打ち込み、ジャッキーとは何か違うと思いつつ、県大会で優勝を果たす。そして大学進学後、香港へ旅行に行った谷垣さんは憧れのジャッキーの撮影現場を見学した。見学先は『奇蹟/ミラクル』(1989年)の現場で、ジャッキーの監督・主演作だ。「監督といっても、どうせ別の人がやっているんだろうなぁ」。そんなふうに考えていた谷垣青年であったが、行ってビックリ、ジャッキーはカメラを片手に、指示を飛ばしまくり、監督として現場をガンガンに引っ張っていた(しかも徹夜で)。この光景に圧倒された谷垣青年は、何とかして香港映画に関わるべく、和製ドラゴンと呼ばれたアクションスター、倉田保昭が主宰する倉田アクションクラブへ参加。受け身をはじめとしたスタントの基礎練習に明け暮れるのであった。

 こうして日本でスタントの基礎を学んだ谷垣青年は、大学卒業後を機に憧れの香港の地を踏んだ。もちろん周りは分からないことだらけだったが、それでもエキストラとして映画の現場に潜り込むことに成功。さらにベテランアクション監督のトン・ワイの推薦で、香港スタントマン協会に加入する。そして数カ月後には、遂にジェット・リー主演の『フィスト・オブ・レジェンド』(1994年)で台詞のある役をゲットした。ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)のリメイクであり、恩師・倉田保昭氏も出演し、アクション監督は生きる伝説のユエン・ウーピン。まさに超一級の功夫映画である。しかし現場に入ると、まず散髪係が谷垣さんの髪を切り始めた。「何をするんだよ~!」と訴える谷垣さんだったが、「こんなもんだ」と最終的に角刈りにされてしまう。かくして角刈りになった谷垣さんは、主演のジェット・リーに容赦なくシバかれるのであった。そして本作は谷垣さんにとって大きな転機になったという。役者として参加した谷垣さんだが、香港スタントマン協会にも加入していたこともあって、率先して撮影スタッフを手伝っていた。マットを運ぶなどの雑用をしながら、ワイヤーの使い方、カメラの配置、カット割りなど、アクション映画の裏方の仕事を覗くうち、アクション映画を作る人、つまりアクション監督の仕事に興味を持ったという。

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