アニメ『古見さん』には1カット、1シーンに味わい深い演出が詰まっている

 オダトモヒコ原作のマンガ『古見さんは、コミュ症です』(以下『古見さん』)には、各々の個性をもじった名前がキャラクターに付けられるという独特な規則性がある。「長名なじみ(おさななじみ)」は誰とでも馴染んでおり、「只野仁人(ただのひとひと)」はただの人で、「上理卑美子(あがりひみこ)」はあがり症。そして「古見硝子(こみしょうこ)」はコミュ症だ(※コミュニケーションが苦手な状態を指した原作オリジナルの略称)。したがって「古見さんは、コミュ症です」というタイトルは、本作のネーミングルールからすれば一種のトートロジーである。「コミュ症のキャラクターがコミュ症である」という同語反復的な陳述は、結果として古見さんの「コミュ症」としてのキャラを読者に二重に印象付けることになるだろう。

 ただし、と物語は強調する。確かに古見さんは二度同じことを言いたくなるほど極度の「コミュ症」なのだが、決して「関わりを持ちたくないとは思っていない」。古見さんというキャラクターの中には、「コミュ症」という後ろ向きの陰キャと、「本当は人と関わりたい」という前向きの陽キャが共存している。ネーミングルールの直球とは裏腹に、キャラクターの内面の機微を描きながらコメディを成立させている点が、本作の魅力の1つと言えるだろう。

 渡辺歩総監督・川越一生監督によるアニメ版は、大胆な再解釈を施したドラマ版と異なり、原作をほぼ忠実に再現しているが、その一方で、随所にアニメオリジナルの演出を盛り込むことで原作に潜在する魅力を巧みに引き出してもいる。とりわけ第1話「コミュ01『喋りたいんです。』」(絵コンテ・演出:川越一生)の演出のインパクトは大きく、今期の他作品と比較しても抜きん出てクオリティの高い話数だった。そこでは、先述した古見さんの“陰と陽”のキャラが的確に視覚レベルに落とし込まれており、物語の導入部として相応しい演出だったと言えるだろう。この記事では、その第1話を中心にアニメーション演出の妙を振り返りながら、作品の魅力を抽出してみようと思う。

 第1話冒頭では、学校付近の歩道に佇む黒猫と古見さんの出会いが描かれる。黒猫は電柱が落とした濃い影の中に佇んでいる。そこに通りかかった古見さんと黒猫の目が合う。古見さんが近づくと、黒猫はいつの間にか電柱の影の中からいなくなっており、明るい春の陽光の中へと駆け去っていく。古見さんの“猫属性”を暗示的に示すと同時に、光と影のコントラストを用いて春の季節を美しく描いたアニメオリジナルのシーンだ。ちなみにこのシーンは第2話のアヴァンのシーン(これもアニメオリジナルである)とも対応している。踏切付近の塀の上に黒猫がおり、遮断機の前に古見さんが立っている。今度は古見さんが建物の影の中にいる。「留意すべきは、[コミュニケーションを]苦手とするだけで、関わりを持ちたくないとは思っていない事だ」という日髙のり子のナレーションとともに遮断機が上がり、それまで影の中に入っていた古見さんが陽の光の中に一歩踏み出す(この時、影から光へと踏み出す古見さんの足元が映し出されるが、これは後述する第1話の只野の足元のカットとも相似形を成している)。アニメ作品において、光と影による演出は比較的わかりやすい常套手段ではある。しかしわかりやすいからこそ、導入部で作品やキャラクターの方向性を視聴者に印象付けるのに最適な手段の1つでもあるのだ。

 “暗から明”へ。この光の転換がさらにドラマチックに描き出されているのが、第1話Bパートの黒板筆談のシーンだ。

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