SF映画ではなくフィルム・ノワール? 『レミニセンス』が内包する多層性と哲学性
さらに、スワンプにおける富裕層と低所得者の対比や、意図的にクラシカルなファッションが登場する点も、やはりフィルム・ノワールを下敷きにした意図に溢れている。唯一、残念だと思える点は、ギャング団との数的に不利な戦いがあまりに淡白なために、リアリティを損じている部分があるということだ。その一方で、クライマックスのアクションは、ノワール的な耽美という意味でも、活劇としても見応えがあるものとなっている。
しかし、いまあえてわざわざフィルム・ノワールに挑戦するには、何らかの意味が必要になるはずだ。その視点から本作を見ると、フィルム・ノワールでありながら、フィルム・ノワールではない、新しさを感じる部分が見えてくる。それが、レベッカ・ファーガソン演じるメイの人物像だ。「ファム・ファタール」という存在は、多くの場合、“男性にとって女性は理解し難いものだ”ということを、ある種哲学的な意味で表象したものだった。その根源的な謎や不安が、闇とともに耽美的に表されているというのが、“ノワール”の本質といえるのではないだろうか。
しかし、リサ・ジョイ監督の描くファム・ファタールは、謎のベールを完全に脱ぎ捨てるとともに、彼女の視点による能動的な物語を見せていく。これは、女性という存在を“本質的に”理解できないものから、自ら活躍することで状況を打開するものとして描き直し、行動的で能動的な存在として表現しているということだ。それは、ノワール世界の耽美性を、ある意味否定してしまう描き方といえるかもしれない。
しかしそれは、本作にも出演するタンディ・ニュートンがドラマ『ウエストワールド』で、ある役割をこなすだけの存在から、自我が目覚めるという表現と呼応したものなのではないか。つまり、ミステリアスな役割を脱ぎ捨てて自分自身の意志を示すメイの描き方には、あくまで男性によるノワール世界に対する、変革の姿勢が込められていると考えられるのだ。それは、ニュートンが演じるエミリーの活躍からも見てとれる。その意味で本作は、“女性たちのノワール”ともいうべき、挑戦的な内容となっているのだ。
もう一つ、本作において触れなければならないのは、ストーリーの重要な要素となる「記憶」の概念についてだ。本作は冒頭において、人生を瞬間、瞬間の記憶の連続ととらえ、それらがつなぎ合わされたネックレスのようなものだと例えている。それはまさに、静止した写真の連続によって時間の流れを生み出し、物語を紡ぐ、映画のフィルムそのものではないか。
劇中で描かれる、ただ楽しみのために装置の中の液体に身を浸しながら記憶に身をまかせる人間の姿は、「映画」という記憶された媒体をスクリーンで楽しみ“耽溺”する、われわれ自身のことなのだ。リサ・ジョイ監督は、そこに自身のフェティッシュであり、自身の美しい記憶でもある「フィルム・ノワール」を投影してみせる。
われわれ観客は、その意味でジョイ監督の大学時代の感動的な体験を、間接的に味わっているのである。『レミニセンス』は、主人公のニックが見る記憶、リサ・ジョイ監督の「フィルム・ノワール」の記憶、そして、われわれ観客の鑑賞行為、さらには人生そのものが映画的なものだという、目が眩むような多層性と哲学性を内包する映画なのだ。そこには、同じように多層的な世界を創造したクリストファー・ノーランとは微妙に異なり、監督の人間くささや温もりが、強く感じられるものとなっている。
■公開情報
『レミニセンス』
全国公開中
出演:ヒュー・ジャックマン、レベッカ・ファーガソン、タンディ・ニュートン
製作:ジョナサン・ノーラン、リサ・ジョイ
監督:リサ・ジョイ
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2021 Warner Bros. Entertainment Inc. All Rights Reserved