『もののけ姫』にみる宮崎駿の自然観 “持続可能性”が謳われる今こそ重要な一作に

 宮崎駿監督の『もののけ姫』は、傲慢になりそうな時に何度でも観るといいと思っている。

 私たちは、普段、世界について何かを知っているつもりになっている。ある枠組みで、自分の知っている範囲で世界を理解したつもりになってしまう。

 しかし、世界とはあらゆるものの総体で、自分の認識の外に常に世界は広がっている。知識と経験を得ると、己惚れが出てきて、外があることを忘れてしまう。

 『もののけ姫』はそういう時に「外」があることを思い出させてくれる作品だ。

日本史の外に生きた人々を描く『もののけ姫』

 『もののけ姫』には、私たちが一般に知っている日本史の外に生きた人々がたくさん出てくる。それは宮崎駿監督が明確に意図したことだ。宮崎監督は、企画書に以下のように記している。

「この作品には、時代劇に通常登場する武士、領主、農民はほとんど顔を出さない。姿を見せても脇の脇である。主要な主人公群は、歴史の表舞台には姿を見せない人々や、荒ぶる山の神々である。
<中略>
最近の歴史学、民俗学、考古学によって、一般に流布されているイメージより、この国はずっと豊かで多様な歴史を持っていた事が判っている。時代劇の貧しさは、ほとんどが映画の芝居によって作られたのだ」(『折り返し点 1997~2008』宮崎駿著、岩波書店、P12。原典は『もののけ姫』企画書。<1995年4月15日>より、映画パンフレットに収録)

 宮崎氏は、中世日本史を専門とする歴史学者、網野善彦氏の著作におおいに影響を受けたことはよく知られている。網野氏は、天皇を中心とした農耕社会だったという日本史の常識に挑み、その外に、非農民の職人や芸能民、無縁に生きる漂流の民などが膨大にいたと主張した。日本史や時代劇の中心になる侍と農民の形成していた社会の外にも、世界は広がっていたというわけだ。

 この島国の歴史は、教科書に載っているほど単純ではなかった。もし、そういう人々がもっと知れ渡っていたなら、日本人のイメージも、今のものとは大きくことなっていたかもしれないと、本作を観ると強く印象づけられる。

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