細田守と新海誠、2大ヒット作家が“都市と田舎”を扱う理由 写実的な描写の姿勢は真逆?

「ここではないどこか」を描く新海誠

 その現実世界の中で、細田監督と新海監督が選ぶのは都市と田舎だ。それはなんとなく選ばれているわけではない。

 新海誠監督は、「ここではないどこか」を求める心を描く作家だ。登場人物たちは、物理的に離れた場所にいるか、途中で引き離される展開になることが極めて多い。離れた相手に焦がれる思いを描く際のセットアップとして、2つ以上の離れた場所を舞台とする。

 出世作の『ほしのこえ』では地球と宇宙で離れた男女を描いた。『雲の向こう、約束の場所』では、北海道がまさに主人公たちにとって「ここではないどこか」として描かれたし、『秒速5センチメートル』や『言の葉の庭』も主要登場人物が街を去ることが描写される。その際に、都市に対して田舎が対置され、またはその逆パターンもある。

『君の名は。』(c)2016「君の名は。」製作委員会

 『君の名は。』は、田舎と都市に住む男女の入れ替わりを通じて、「ここではないどこか」にいる2人の恋模様を描く作品だった。ヒロインの三葉は都会に憧れ、都市に住む瀧と入れ替わったことで都会生活を満喫する。瀧の方には田舎に対する憧れはない。だが、終盤三葉の街がなくなっていることを知り、その喪失の中をもがくことになる。

 都市の東京は残り、地方の糸守町が彗星によって喪失するというのは、この作品が東日本大震災の影響を受けていることともあるが、今日の日本の過疎化を考えると痛切なものがある。その現代日本の地方の喪失と男女の恋愛のすれ違いを重ねているわけだ。

『天気の子』(c)2019「天気の子」製作委員会

 『天気の子』の場合、主人公が「ここではないどこか」を希求した結果、東京にたどり着く。家出の理由や動機が描かれないことが特徴的なこの物語は、それがないからこそ多くの人が抱いているであろう「ここではないどこか」への憧憬を強く刺激する作品となっていた。

 また、『君の名は。』と『天気の子』の2作品において、田舎の舞台となる場所は架空の町か、厳密にどこであると言及されない。一方、都市を代表する東京は、はっきりと東京であると名指される。『君の名は。』なら四ツ谷、『天気の子』は田端や歌舞伎町など、実際に存在する固有の場所がディテールたっぷりで描かれるが、『君の名は。』の糸守町や『天気の子』の離島は、モデルになった場所はあれど、固有性を持って描かれていない。『言の葉の庭』でも、新宿御苑など都会の中で固有の場所が出てくるが、ヒロインの雪野先生の地元は漠然と「四国(〜県ですらない)」だった。『秒速5センチメートル』の時は、栃木の宇都宮や種子島など、厳密な場所として作中でも言及されているのとは対照的だ。

『天気の子』(c)2019「天気の子」製作委員会

 なぜ、地方と都市(東京)の描写が非対称的になっていったのだろう。現代日本で個性を放つ街は限られている。消費社会研究家の三浦展は、大型店の出店規制が解除されたことで、日本中の地方に大型店舗が出店し、土地固有の風景が全国的に均質なものになりつつある現象を「ファスト風土」と呼んだ。東京はたしかに、「ファスト風土化」を逃れている街だと言えるが、均質な風景が広がれば広がるほど、「ここではないどこか」の目標になれる街は減っていくだろう。

 現実に地方と東京は非対称的的な関係になり、東京だけが栄え、個性も維持できるような状態になっている。このあたり、新海誠監督はどのように捉えているのだろうというのは気になるポイントだ。

関連記事