バトル以外の内容が“ほぼ無い”『ゴジラvsコング』 モンスターバースでの位置付けを考察

 前半で描かれる最初のマッチアップは、コングが苦手とする海での戦闘だ。しかもコングの手は自由がきかない状態にあるため、ゴジラが圧倒的に優位。しかし、コングはその場で機転をきかせ、周囲の環境をうまく利用しながら状況を打開していく。『新世紀エヴァンゲリオン』の一場面を彷彿とさせる、軍艦から軍艦へと跳躍する機敏さで、ゴジラへの反撃のチャンスを窺うのだ。その優れた運動能力と臨機応変な対応、ゴジラを遥かに超える太い腕から繰り出される超重量級のパンチを見ていると、格闘術ではゴジラを上回っているようにも感じられる。

 とはいえ、ゴジラには必殺の「アトミックブレス(放射熱線)」がある。鎧のような硬い外皮に覆われているゴジラなどの怪獣とは異なり、体毛に覆われているだけのコングでは、シリーズを経るうちに威力を高めてきたゴジラのブレスを一発でもまともに受ければ、致命傷となってしまう。いくら細かいところで上回っていても、一発でフィニッシュできる技を持つゴジラの方が、圧倒的に強いのだ。

 しかし、これは初めから分かっていたことだ。映画史に名を刻むキャラクターとして、ニ体の怪獣の存在は確かに甲乙つけがたいが、もともと設定の上で、両者の戦闘力には圧倒的な開きが存在していたのである。それを見越して、レジェンダリーの『キングコング:髑髏島の巨神』(2017年)では、意図的にコングの設定を、より大きく、よりパワフルなものにしていたが、それでも大きな類人猿のような存在であることは変わらないため、バトルを真面目に描けば描くほど、コングは基本的にゴジラのような“破壊の神”、“怪獣の王”と戦うようにはできていないことが露呈されていくことになる。

 この構図は、『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016年)における、ヒーロー同士のバトルに近いものがある。この作品では、数多くのコミック原作ヒーローの中でも、きわめて強大な力を持つスーパーマンに対して、スーパーパワーを持たないバットマンが1対1で戦うといった、少々無理な戦いが展開する。だが潤沢な財力を持っているバットマンは、スーパーマンと戦うためだけに万全に装備を固め、トラップを仕掛け、相手の弱点を利用しながら戦うという方法をとった。これと同様に、コングもまた実力差を埋めるべく工夫を凝らすことになる。そしてコングのゴジラ対策は、人類の進化の過程を辿る、“道具の使用”に行き着くのだ。

 対等となった両者による本気の戦いの行方は、ぜひ大スクリーンで見届けてほしい。本作は、コロナ禍で公開される久々のブロックバスター映画らしい超大作である。「大味」と感じられる点も含めて、映画館の大きなスクリーンと音響設備で楽しんで、試合の観客の一人になってこそ、本作の真価を味わうことができるのである。

 一方で、本作には小さくない違和感も存在する。ギャレス・エドワーズ監督の『GODZILLA ゴジラ』は、モンスター映画としての魅力を放ちながらも、一方で原発事故や核実験の隠蔽について描くという、ポリティカルサスペンスとしての側面があった。そしてマイケル・ドハティ監督の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は、“怪獣第一主義”を作品の根幹に定め、人間は怪獣のペットになって存続していこうという、ある意味で人類の傲慢さを皮肉るような、哲学的ともいえる思想が語られる意欲的な内容だったのだ。

 このように、レジェンダリーのゴジラ作品が、ある種の風刺作品として提出されたのは、やはり東宝第一作の『ゴジラ』(1954年)が、時事性や社会性を色濃く反映した作品だったからだろう。東宝のシリーズは、その後ポリティカルな要素のない作品も一部で製作してきたが、いまあらためてゴジラ映画を手がけるならば、映画監督としてアクションに終始するだけの内容では不十分だと考えるのは、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016年)のアプローチを見ても理解できるところだ。

 さらに、レジェンダリーの『ゴジラ』2作品では、ゴジラの姿を、あたかも水墨で描く山水画のように空気遠近法を用い、幽玄ともいえる画面を作り出していたり、荘厳な宗教画のように描いたりと、これまでにない表現手法を達成していたのも確かなことだ。ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督によるレジェンダリーのコング映画『キングコング: 髑髏島の巨神』にしても、日本のアニメやゲームなどへの愛情が爆発した表現がいくつも登場するという、異様な特徴を持っていた。それを考えると、これまでに見たことのない表現や、際立った特徴が、本作だけは希薄に感じられるのである。

 それでは、本作『ゴジラvsコング』の監督は、才能がないのかというと、むしろ逆である。本作を手がけたアダム・ウィンガードは、圧倒的なセンスと個性を持ち、従来の娯楽映画の型にはまらない作品を次々に生み出してきた、奇才と呼べる映画監督なのである。なかでも、スリラー『ザ・ゲスト』(2014年)は、伝説的なカルト映画といえる才気走った一作であったし、批評家や観客に評判の良くなかった『Death Note/デスノート』(2017年)も、日本の原作漫画をアメリカ風に換骨奪胎した、ウィンガード監督らしいトリッキーな内容だといえる。筆者自身も、『キネマ旬報』の「期待できる映画監督」を選ぶ企画で、ウィンガード監督を、その筆頭に選出したことがある。

 それを踏まえると、本作においては、そんな監督の力量や個性が、かなり薄められているのが理解できるのである。このような状況は、超大作映画にはよくあることだといえるが、これまでのレジェンダリーの怪獣映画が、そのように監督の持ち味をスポイルするような方向性で提出されてはいなかったことを考えると、本作にだけ何らかの事情があったのだと推察するのが自然ではないだろうか。考えられるのは、新型コロナのパンデミック以前に本作の完成が一度延期となった点である。じつは、この当時にワーナー・ブラザースのCEOが、あるスキャンダルで交代したことで、新たに就任したCEOトビー・エメリッヒが、本作の公開延期に際して「ファンが求めるものにするため」と説明していた事実があるのだ。

 おそらくは、ウィンガード監督が完成作として出してきたものは、彼らしいセンスや皮肉な描写が見られる内容だったのだろう。監督のファンである筆者としては、「それこそが観たいんじゃないか!」と感じてしまうが、大多数の観客は、そんなことよりもとにかくコングやゴジラの戦いをたっぷり見せてほしいと期待している人が大半だろう。もちろん、そのこと自体は悪いことではないし、そういった観客の要望に先回りして応えようとする会社の態度が間違っているわけでもない。

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