『街の上で』が祝福する繰り返しの日々 今泉力哉監督が描き続けてきた“不在"のありか

『街の上で』から振り返る今泉力哉の作家性

 主人公の荒川青(若葉竜也)が住む下北沢という街には、「ふらっと行ったんで」と言えるライブハウスがある。ふと立ち止まって見上げれば演劇のポスターが目に入ることもあるし、行きつけのカフェでは青年たちがヴィム・ヴェンダースの映画について談義を交わしていたりもする。荒川青が特別それらに強い関心があるようには見えないが、古着屋(hickory)で働く彼のもとに舞い込む「学生映画への出演依頼」をもってして、住むものは必ずカルチャーの渦に飲み込まれてしまうのだろう、この街の空気に私たちは触れる。

 ふらっと立ち寄ったライブハウス(THREE)で彼が発見したものは、厳密に言えば舞台上で歌っているミュージシャン(マヒトゥ・ザ・ピーポー)ではなく、涙を流す女性の横顔だった。終演後、思いがけず彼女からもらったメンソールタバコを口に咥えながら、荒川青はついぞ話しかけることができないでいる。同じように横顔を見つめる瞬間が、ラーメン屋(珉亭)で麺をすすっているところにもあった。しかしただ目を奪われるのみで、やはりそこから関係が発展するということはない。

 荒川青は、思いがけず何人かの女性と出会う。音楽や演劇にふと目をやるように、行き交う人々のなかから誰かを見つけ/見つけられ、ときには戯れの会話を始める。荒川青という人は、もしかしたら“惚れっぽい”のかもしれない。そんな考えがよぎるのは、ときには余計なことまで聞いてしまう物事への興味の持ち方と、出会ったときの高揚とも戸惑いともつかない表情からだろう。一方で、彼が川瀬雪(穂志もえか)への恋心を一途に抱えたままでいることもまたたしかだ。飲み屋(水蓮)のマスターは、「青からしつこく連絡がきて困ってるらしい」と彼女の苦情を代弁する。

 一途であり、また惚れっぽくもある。永続的であり刹那的でもあるその荒川青の性格が、“繰り返し”と“一度きり”の日々を綴る『街の上で』の輪郭をなしていく。

※以降、本稿は一部『街の上で』と『愛がなんだ』のネタバレを含みます。

「笑い」は「恋」のバリエーション

 古着屋で起こるカップルの痴話喧嘩や、路上で飛び出すお巡りさんの恋バナ。「この人告白してうまくいったらあんたのせいだから」や、「なんだ、複雑だな」という間の抜けたセリフ。『街の上で』を観ている間なんども笑いがあふれてしまうのは、こういったシーンでのこと。そのときの感情の動きは、なんだか「恋をする瞬間」にもとても似ているように思った。荒川青がこの世界のうちに美しいものを見つけて惹かれてしまうのと同じように、私たちもこの映画のうちに可笑しなふるまいを見て笑いをこぼしてしまう。どちらにも、ああこんなところにいたんだ、と発見・遭遇することの反射的な歓びや驚きがある。それは、『あの頃。』で主人公・劔(松坂桃李)があややの存在を見つけた瞬間にも近いイメージで。

 『街の上で』に横溢する、カルチャーの薫り、惹かれてしまう横顔、まっすぐで可笑しな人々。これは、そうした存在の発見/再発見を描く映画だ。「誰も見ることはないけど、確かにここに存在してる」。そう端を発するように、ここではまた、“無くなったもの”にすらも目が向けられているだろう。消えゆく街の風景、留守電に残る亡くなってしまった人の声、カットされた映像――。ここで言う“不在”や“不可視化されたもの”というのはまた、思えば今泉映画にずっと流れ続けているテーマでもある。家族の死を幾日経ってから知ることになったり(『退屈な日々にさようならを』)、好きな人からの誘いを待っても連絡がくることはなかったり(『愛がなんだ』)、ラーメン屋は閉業を迎えたり(『mellow』)、恋人が目の前から去ってしまったり(『his』)。誰からも目が向けられることはない、しかし確かにそこに存在していたものについて。

 今泉力哉は「恋」と「不在」というモチーフで韻を踏むように作品を連ね、そのバリエーションのなかに、“あったもの”と“いまあるもの”を見つける歓びを浮かび上がらせる。

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