「新しい日常、新しい画面」第5回

小津安二郎的“明るさ”と“影の美学”の対比 20世紀から21世紀の“画面”の映画史

「影の美学」=「暗い画面」のゆくえ

 ともあれ、「映画撮影における「影の美学」は、一九三〇年代後半から一九四五年の間の主要な映画と批評の中にその姿を現した。「影の美学」は、戦時下の映画文化の複雑な状況を体現していたと言ってよい」(『影の美学――日本映画と照明』笹川慶子・溝渕久美子訳、名古屋大学出版会、170頁)と宮尾は書く。すなわち、日本映画の「影の美学」とは、もとよりハリウッド映画の美しいロー・キー・ライティングに憧れながら戦時下の厳しい機材不足などの状況下にあった当時の映画カメラマンたちが、国家主義に迎合する日本的なイデオロギーとしての「陰翳礼讃」を取り入れながら正当化した概念であり表現だったのである。

 そして、ここにはハリウッドの「暗い画面」=「暗黒映画」の典型的ジャンルである「フィルム・ノワール」の文脈も結びつく。フィルム・ノワールとは、1940年代から50年代にかけて、ハリウッドで量産された低予算(B級の)の犯罪メロドラマであり、ハードボイルド小説を原作として、映像面ではドイツ表現主義などの影響を受けた文字通り極端なロー・キー・ライティングの明暗表現で知られている。

 1934年にハリウッドから帰国し、東宝の専属カメラマンになった「ハリー・三村」こと三村明は、若いころに名カメラマンのグレッグ・トーランドに師事して撮影技術を習得し、戦時下の国内の劣悪な条件のなかで、山中貞雄監督の『人情紙風船』(1937年)などの名作の撮影で、のちにトーランドが本格的に開発するいわゆる「パン・フォーカス」(ディープ・フォーカス)などに代わる質の高い映像表現(「縦の構図」など)を実現させる。そして、このトーランドがパン・フォーカスを存分に駆使したオーソン・ウェルズ監督・主演の傑作『市民ケーン』(1941年)が、フィルム・ノワールの重要なルーツになったことは知られる通りだ。

 このあと宮尾は、宮川一夫が撮影を担当した戦後の市川崑監督『鍵』(1959年)――もちろん、原作はあの『陰翳礼讃』の谷崎潤一郎――にまでフィルム・ノワールとの共通性を見ようとする(同前、266頁)。そういえば最近、『市民ケーン』の脚本を担当したハーマン・J・マンキーウィッツの半生を題材にして、しかもパン・フォーカスをはじめとしたトーランドの同作の映像表現をそっくりそのまま再現してみせたデヴィッド・フィンチャー監督の『Mank/マンク』(2020年)がNetflixオリジナル映画として配信されたが、この『Mank/マンク』のモノクロの「暗い画面」にもまた、おそらくは映画史のさまざまな「陰翳」を読み取ることが可能である。

「画面」の映画史の過去・現在・未来

 ともあれ、『影の美学』の宮尾は、草創期から戦後にまでいたる日本映画の「影の美学」の系譜をたどってきたあとで、最後に、このように議論を締めくくっている。

一九六〇年代にカラー映画がモノクロ映画に取って代わってから、一九七九年に芳野が「陰翳の美学」は「奥深いところにじっと潜んでいる」と述べるまでの約二〇年間、「影の美学」は忘れられたかのように見えた。そうした忘却は、一九六〇年代の高度経済成長とかかわりがあったのかもしれない。日本の将来は、明るく朗らかに見えたのだ。そして見えやすさを重視するテレビの流行の中に、「影の美学」の居場所はなかった。しかし、例えば二〇世紀末にブームとなったJホラー(日本製ホラー)映画の作り手たちは、日本の空間の中にある暗さや影に魅かれると語る。デジタル時代のまっただ中において、そうした作り手たちの「影の美学」に対する傾倒が意味するものは何だろうか。(同前、277頁)

 明らかな通り、この宮尾の結論は、ぼくたちのこの連載の議論にとってもことのほか重要だろう。

 ここで宮尾は、「「影の美学」は忘れられたかのように見えた」戦後の「約二〇年間」の有力な時代的要因のひとつとして、「見えやすさを重視するテレビの流行」を挙げており、またその後、ふたたび「影の美学」に接近し、「日本の空間の中にある暗さや影に魅かれると語る」「Jホラー(日本製ホラー)映画の作り手たち」が現れたとの歴史的な見取り図を描くが、まさにこれは、ぼくたちが第4回の議論で参照した『フレームの外へ』における赤坂太輔の映画史観を正確になぞっている(ここでいわれる「Jホラー(日本製ホラー)映画の作り手たち」に黒沢清が含まれることはいうまでもない)。あるいは、他方の『小津安二郎 サイレント映画の美学』の滝浪もまた、彼の提起する「<明るさの映画>」や「<動き>の美学」をデジタルシネマの文脈と類比的に語っている。であれば、やはりここでの映画史的なパースペクティヴを、この連載で述べてきたコロナ禍のデジタル環境の映像と結びつけて考えることは有効だろう。

 このようにぼくたちには、おそらく100年単位の映画や映像文化の歴史のなかで、いまの「新しい日常」における「新しい」、「明るさ」と「暗さ」を伴った「画面」のゆくえについて批評的に検討することが求められているのだ。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
全国公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp

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