『マティアス&マキシム』グザヴィエ・ドランにしか描けない、たったひとつの“初恋”がここに

 ある自主映画の撮影でラブシーンを演じることになった親友同士の男と男。それがきっかけとなり、ふたりの関係に変化が訪れる。マティアス(ガブリエル・ダルメイダ・フレイタス)は恋人との結婚を控えており、マキシム(グザヴィエ・ドラン)はオーストラリアへと旅立つ準備を進めている。まさに人生の分岐点に立つ彼らが、抑えきれなくなっていくお互いへの感情とどう向き合っていくのか。そんな『マティアス&マキシム』のBlu-ray&DVDが3月12日に発売となる。豪華キャストを迎えた日本語吹替版は本作が新たに生まれ変わったかのような装いで、すでに観ていてももう一度『マティアス&マキシム』の世界を楽しめるだろう。その他、劇中でマティアスとマキシムが出演した短編映画『Limbo-辺獄』、別テイクによる未公開シーン、最果タヒの詞「傷痕」を菅田将暉が朗読する特別映像などが収録されている。カナダの映画作家グザヴィエ・ドランは、これまでにないほど繊細な手つきによって、自身のフィルモグラフィ史上もっとも純度の高い愛の物語を詩情豊かに編み上げていく。

 マティアスとマキシムは共に幼なじみとして同じコミュニティ内で過ごしてきたと思われるが、それぞれがまったく別の人生を送ってきており、そしてこれからさらに別の道を行くかのような分断がふたりの間にあることを感じさせる。恋愛映画であれば恋人同士になるふたりの触れ合いやぶつかりあいなど近い距離の交流を通して大団円に向かっていくのが定石であろうが、『マティアス&マキシム』が重点を置くのはむしろ、隔たれた距離がある者同士における対話なき時間に高まっていく感情の有り様なのかもしれない。だからこの映画はひとつの「マティアスとマキシムの物語」であるというよりも、平行して進んでいく「マティアスの物語」と「マキシムの物語」のふたつから成り立っているようでもある。

 ゆるやかにどこかへ向かっていくような予感がするマティアスとマキシムのそんな恋模様とは対照的に、マキシムと母マノン(アンヌ・ドルヴァル)の親子関係は停滞を極めている。ドランがこれまでも繰り返し描いてきた「母」のテーマは、『マティアス&マキシム』でも影を潜めていない。長編監督第1作『マイ・マザー』(2009年)でとりわけ顕著なように、ドラン映画における「母」との関係性は愛憎まみれた一筋縄ではいかない複雑さを呈するが、息子をドラン自身が演じている場合にはそれが一層色濃くなる。たとえばドランではない役者がその息子役を演じた『たかが世界の終わり』(2016年)の母マルティーヌ(ナタリー・バイ)と息子ルイ(ギャスパー・ウリエル)や、『ジョン・F・ドノヴァンの死と生』(2018年)の母サム(ナタリー・ポートマン)と息子ルパート(ジェイコブ・トレンブレイ)は、親密な抱擁を交わす。しかし、ドラン演じる息子となるとその類の抱擁ははっきりとは見られない。『マイ・マザー』のドラン演じるユベールが「母は死にました」と放言してみせたように、『マティアス&マキシム』でもドラン自身が演じる息子は、母をまるで亡き者として折り合いをつけるしかないような、どうしようもなさを抱えている。

 マキシムはどこか母を失った赤子のような心許なさを、つねにかぼそい身体に纏わせている。マキシムの顔には大きなあざがあり、時折見せる物悲しげな表情と相まって、赤い涙を流し続けているかのように見まごう。バスの車内でマキシムが頭から血を流すのは、そんな痛々しさに追い打ちをかけるかのように鮮烈な印象を残す。マキシムにとって顔にあるあざとは、つねに自分から見えているわけでも意識しているわけでもないが、他人からはつねに見られているものであり、それはマキシムや、あるいはマキシムに投影されたドラン自身のセクシュアリティのある種の比喩のようにも思える。この映画のなかでそんなマキシムのあざに言及するのは、マティアスただひとりである。マティアスはあざについて乱暴に罵り言葉を吐きもするが、同時に優しく触れもする。マキシムを傷つけることができるのも、癒すことができるのも、この世界でたったひとりだけだとそのあざは証明する。