『私をくいとめて』から考える“新しい恋愛ストーリー像” いかに女性が“変わらない”でいられるか

『私をくいとめて』の新しい恋愛ストーリー像

 複雑なのは、みつ子自身は一緒に暮らしたりするようなパートナーを欲しいという気持ちを、じつは持っているというところだ。しかし、そういう願望を自分のなかで制御してしまっている理由は、自分の“市場価値”について自信がなくなっているからというわけではない。むしろそのような世間の価値基準こそが、彼女が“おひとり様”ライフを送るようになった要因になっているということなのだ。その根拠となるものは、みつ子と多田くんとの仲が進展することで顕在化していく。

 本作がただアラサーの崖っぷち恋愛ドラマだったとすれば、“ハイスペックな”多田くんと親密な関係になった時点で「ラッキー!ハッピー!大勝利!」といった雰囲気でラストを迎えることになるだろう。だが本作は、逆に深刻な空気が濃くなってくる。その背景にあるのは、みつ子のなかの社会に対する圧倒的な不信感である。

 世界経済フォーラムが発表している「ジェンダー・ギャップ指数」では、日本は153カ国中121位という不名誉な順位に甘んじていて、アジアの中でも中国や韓国に遅れをとっている。このデータが示すのは、日本の労働環境や社会の仕組みは、基本的に女性にとって非常に厳しいものになっているというこだ。このような社会状況を肌で実感し、男女格差やセクハラに問題意識を明確に感じる女性というのは、少なくとも日本においては、おそらくアラサーくらいからが多くなってくるのではないだろうか。みつ子のそんな感情を具体的に示しているのが、温泉旅館でハラスメントを目の当たりにして強いストレスを感じるシーンである。

 本作が描くのは、そんな状況に対する等身大の女性の絶望と疲弊であり、不利なルールで行われるゲームからのドロップアウトである。みつ子はそんなゲームにもう一度チャレンジしてみようとするが、かつて途中まで進めたゲームをふたたびプレイすることで、ふたたび不安が顔を見せ始めるのだ。

 多くの物語は、主人公が成長して自分のなかの問題を解決することで前に進んでいく姿が描かれる。だが男女格差などの問題が山積している社会に生き、そのことを強く意識できている女性にとって、果たしてそのような物語が有効に機能するだろうか。例えば、学校のクラスにいじめが存在する場合、いじめられている当事者が自分の問題を解決する必要があるのか。そして、それがいじめを解消することに役立ってくれるのか。むしろ、成長して変わらなくてはならないのは、いじめを行っている側であり、それを許してしまっている学校なのではないだろうか。

 黒田みつ子という女性が恋愛に対して臆病になっているのは、すでに社会から傷つけられ絶望しているからであり、彼女が成長できていないからではない。そして彼女の不安を取り去ることができるのは、パートナーの誠実さであり、彼女と連帯することのできる人々の存在なのではないか。社会の側が歩み寄らないのなら、自動的に彼女はおひとり様になるだけなのである。“A”というもう一人の自分は、もはや自分自身の判断や基準しか信じられなくなった、みつ子の外部への不信感を象徴しているのだ。

 自分を社会やパートナーの好みに合わせ、彼らにとってチャーミングな存在になるのではなく、むしろ社会の側がまず歪みを矯正することで信頼を回復する必要があるんじゃないかという強い疑問や憤りが、本作の至るところから顔を出している。だから、世間が認める男性と付き合うことは、本作のゴールにはならない。ステータスを求めることは、むしろ自分を追い詰める側の価値観を補強してしまうからである。その意味において、世の中や男性に対する絶望から、みつ子が回復していくことで、もう一度世界を信頼してもいいと思える瞬間こそが、本作のハッピーエンドになり得るである。のんが本作の主人公だとしても違和感を与えられないのは、本作がステータスを基準とする価値観から脱却したいという意志を持っているからではないだろうか。

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