『おちょやん』道頓堀編までを振り返る 時代への忠実性から見える“不変かつ普遍なるもの”

 お茶子の千代(杉咲花)が座布団を抱えて駆け抜ける道頓堀の風景ーー劇場の呼び込み、チンドン屋、一張羅を着た芝居見物の客たち、弁当を担いだ棒手振。9歳の千代(毎田暖乃)が初めてここに来たときには見当たらなかったモガが、しゃなりしゃなりと歩いている。『おちょやん』(NHK総合)の、まるで大正時代の白黒写真がフルカラー化・3D化したような街の風景には、いつも目を奪われる。

 このドラマの作り手は、当時の人々の生活や「在り方」の臨場感にとことんこだわっているとみえる。特に第10話の台詞に息を呑んだ。父・テルヲ(トータス松本)の夜逃げの報せを受けたうえに、奉公先である岡安のご寮人さん・シズ(篠原涼子)からクビを言い渡され、街を彷徨う千代。お家さんのハナ(宮田圭子)がホームレスのおっちゃんらから得た目撃情報で千代を見つけ出すのだが、このときハナが発した「この街のことは乞食の小次郎はん(蟷螂襲)に聞くんが一番や」という言葉にハッとした。「乞食」ーー厳密に言えば、いわゆる「放送禁止用語」と呼ばれるものには当たらないものの、長らくテレビで使うには慎重視されている単語だ。クレームを恐れて、別の表現に置き換えようと思えば容易い。しかし、大正時代の道頓堀の街の成り立ちや人々の生活、社会背景を忠実に再現しようとするなら、当時使われていたままの言葉を使うのが筋であると、おそらく制作陣は考えたのだろう。

 「道頓堀編」では、岡安と小次郎たち「乞食」が、持ちつ持たれつの関係であることが繰り返し描かれた。ハナは親しみと敬意を持って彼らに接し、助けてもらえば「これであったかいもんでも食べて」と寸志を渡す。シズが昔の思い人・延四郎(片岡松十郎)から受け取った手紙の束を燃やしに向かった先は、小次郎が暖を取る焚火だった。千代は、お客の弁当の残りを小次郎たちに回してフードロスをなくし、往来で彼らに出会えば軽口を叩き合う仲だ。長年、道頓堀の街を見てきた守り神のような存在の「乞食」たち。そして彼らは、居場所をなくしかけた幼き千代を見つけ出し、テルヲの作った借金のカタに千代を売ろうとする借金取りから守ってくれた恩人だ。それも岡安と彼らのつながり、日ごろの千代と彼らの関係性から自然に生じた行動と思える。アダム・スミスの言葉を借りるなら「分業に基づく協業」というやつであろうか。人それぞれの立場と役割があって社会は成り立っている。都合よく「千代のために作られた社会」に生きているのではなく、もともとある社会の中に千代が生きている。そこにこそ物語がある。

 さらに、姿を現しこそしなかったものの、道頓堀を裏で取り仕切る極道らしき存在も匂わされていた。千代を逃した後、借金取りに元本相当の金を渡して手打ちとし、「これ以上よそもんが調子乗ってたらどないなことになるか、わかれしまへんよって!」とシズが切った啖呵は、地元の「みかじめ」を行う大きな組織があることを言い表していたともとれる。江戸の昔から、興行とヤクザは切っても切れない縁。芝居の街・道頓堀を舞台に時代性を重んじて描くドラマとして「なきもの」にはしない。それをシズの「ハッタリかもしれないし、実際に後ろ盾があるのかもしれない」と、どちらともとれるシーンとして“朝ドラサイズ”に落とし込む作劇が見事だった。

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