<特別編・後編>宮台真司の『攻殻機動隊 SAC_2045』評:人間より優れた倫理を持つ存在と戦う必要があるのか?

【倫理も人間より優れた存在と戦う必要があるのか?】

宮台:『攻殻機動隊SAC_2045』に戻ると、押井守の映画版『攻殻機動隊』の第二作『イノセンス』で、「人とモノの対比では、モノのほうに価値があるんじゃないか」という価値の逆転が、義体人間と球体関節人形を重ねるというモチーフを通じて描かれていたよね。

ダース: 一部の人では「最高傑作」と言われていたりもする作りですよね。ちょっと難解なんですけどね。

宮台:そう。でもストーリーを追わずに表象の機能的対比を見ると簡単だ。人間と人形が出てくる。人間は輪郭を持った中心的存在だ。でも人形はモノか人か分からない境界領域の存在だ。境界領域の存在にこそ最も「力がある」あるいは「定住ヒューマンが失ったものを保存する」という逆説がある。それをジョルジュ・バタイユは「呪われた部分」と呼び、エドモンド・リーチは「リミナリティ(境界状態)」と呼んだ。もう400年も続く糸操り人形の傀儡師・結城一糸は「闇の力」と呼び、僕自身は「縦の力」と呼んできた。

 押井守は球体関節人形が好きなんだね。僕も人形を幾つか持っていて、天野可淡をはじめとする人形作家が好きだということがある。だからこそ『イノセンス』を見て、すごく驚いた。「え、それを描いちゃっていいの?」と。「人よりも、モノや人形が大切なんじゃないか」なんて。まぁ、これは世代的な体験を表現したものだと考えて、無害化もできるんだけどね。

 実際、僕らの世代は小さい時に人形劇ばかり見てきた。『チロリン村とくるみの木』(1956年〜64年)『ひょっこりひょうたん島』(1964年〜69年)『海底大戦争 スティングレイ』(1964年〜65年)『サンダーバード』(1965年〜66年)など。とにかく毎日人形劇を観ていた。テレビで観ただけじゃないんだよ。僕は京都で育ったけど、関西は児童演劇運動の中心地だったから、年に1~2回学校で人形劇を観たの。そういう僕らにとってみると、人形は人間に「近い」けれど、「人間に達しない存在」という意味ではないんだね。

 例えば、人形ってバラバラにできる。首や手足がふっとんだりね。バラバラにしたあと、また元に戻せる(笑)。人形劇では、そういう演出がすごく大事なんだけど、その意味でもやっぱり人間以上なんだね。more than humanなんだよ(笑)。「その感覚を、久しぶりに描いてくれたな、しかしやばいな。若い人には通じねえよ」と思ったのね。その意味で、仮に難解だとしたら、ストーリーというより、クオリア(体験質)的に難解なんじゃないかな。すごくノスタルジックな昔の感受性だから、若い人にとって難解だということがあり得ると思う。

 それを踏まえると、今回の『攻殻機動隊SAC_2045』は、勧善懲悪じゃないのは当たり前としてーー勧善懲悪なんて神山健治が描くわけないからーーポストヒューマンがmore than humanだというところにポイントがある。単なる計算能力や身体能力の話ではないよ。義体化された草薙素子やバトーは、せいぜいbetter humanにすぎない。だから所詮はヒューマンと同じ倫理しか持てないでしょ? 他方ポストヒューマンはmore than humanだ。だからヒューマンとは異なるもっと優れた倫理を持つ。とすると、中途半端なbetter humanに過ぎない草薙やバトーが、なぜmore than humanと戦わねばならないのか。つまりそこに、いままでの攻殻機動隊にはなかった大事なモチーフが出てきている。

ダース: 敵という前提が崩れる可能性が多いにありますよね。すでに11話12話でちょっとそれが描かれているっていうのと、『イノセンス』でも草薙素子っていう存在自体が、more than humanとの境界線に紛れ込むところがポイントで。見方によっては不気味に見えるかもしれない。それが『幼年期の終り』的な意味のあり方になる。GHOSTっていうのが、解放という1つの形としてクラウド化するみたいな。クラウド&ダウンロードみたいなイメージなんで(笑)。それが更にアップデートされた形で出てくるんじゃないかなという。

宮台:たとえゴースト(魂)や記憶をクラウドにアップロードしても、所詮はハラリやハラウェイのサイボーグでしかない。その意味では僕らはとっくにサイボーグだけど、別にどうってことないじゃんね(笑)。逆に、たとえ一切の義体化やアップロード化がなくても、個別化した主体ではなくなるという意味で、脱人間化=モノ化することの方が、はるかにmore than humanなんだよ。もっと言えば、ヒトじゃなく、モノに一体化できる存在こそが、more than humanなんじゃないの、ということだ。

 といっても、僕らみたいに60年代に小学校時代を送った世代にとっては、新しくないどころか、すごく懐かしい。『ウルトラマン』(1966年〜67年)の「恐怖の宇宙線」という回。子供たちが土管に描いた絵が、宇宙から来た放射線で3次元怪獣化して、それをウルトラマンが退治しようとするんだけど、子供たちの夢の結晶である「ガヴァドン」を守ろうとして、「ウルトラマン!宇宙に帰れ! ウルトラマン!ガヴァドンをいじめるな!」と子供たちが叫ぶ。ガバドンこそ、人から生まれたmore than humanだ。僕らが子どもの頃に観ていた番組には勧善懲悪モノが少なかったという文脈でこの話をすることが多いけど、単に「悪にも理由がある」とか「善もたいていは偽善」という話を超えたところが、本当はあるんだね。

 まず、僕がよくしてきた話を復習する。人間・対・怪獣。怪獣は悪に見えて、自然に対する横暴への復讐だったり、公害のような人間が生んだ悪の結晶だったりする。むしろ悪は人間だ。人間・対・猛獣。テレビ『ジャングル大帝』(1965年〜66年)が描くように、猛獣が人間に悪さをすると見えて、結局、猛獣に残酷な生存を強いる人間が悪だ。人間・対・妖怪。テレビ『ゲゲゲの鬼太郎』(1968年〜69年)の誕生譚『墓場鬼太郎』(1960年、テレビは2008年)が描くように、妖怪が人間を脅かすと見えて、実は妖怪は幽霊族と呼ばれる先住民で、人間が彼らを森へと追いやった悪だ。

 でも、もう1つ、重大な問題があるんだ。いつも本当は話したくて、今回それを話すことができるのは、うれしい。それは、善と悪のどんでん返しをもたらす「舞台回し役」だよ。具体的には、怪獣にもヒューマンにもなり切れる「子供」であり、猛獣にもヒューマンにもなり切れる「レオ」であり、妖怪にもヒューマンにもなり切れる「鬼太郎」(妖怪と人のアイノコ)だ。つまり、自己を転移させて膨縮させられる存在なんだよ。

ダース: 迫害されてますからね、鬼太郎の人間のお父さんは。

宮台:そう。ダースさんがおっしゃるように、幽霊族も人間のお父さんも迫害されている。だから、人間だから善だとか悪だとかいう仕切りには、本当は意味がないんだ。後に子供向けの番組になったので、鬼太郎が善のイメージになったけど、元々は鬼太郎もねずみ男も人間と妖怪のアイノコだ。善であるようでもある。悪でもあるようでもある。人間界と幽霊族界の中間に位置する、主体の在処が曖昧な存在だからだ。そして、それは良いことなんだよ。

 鬼太郎やねずみ男が人間界と幽霊族界の中間に位置するから舞台回し役を務めるように、草薙素子やバトーもhuman界とmore then human界の中間に位置して、善悪の反転や膨縮の舞台回し役をするんじゃないだろうか。more then humanとしてのポストヒューマン側につくか、言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシンとして本当に劣化したヒューマン側につくか、みたいな葛藤が描かれるんじゃないかな、っていうのが、実は僕の予想なんだ。

ダース: それを聞いていて思ったのが、登場人物の中で義体化を一切拒んでいる存在が「トグサ」というキャラクター。「トグサ」は、前シリーズで1回置いてけぼりになっているんですよね。連れて行ってもらえなかったっていうか、本人が行くことに疑問を持ってしまった。

 という葛藤が、実はすでに伏線として埋め込まれている。さらに言うと、「荒巻」という人物がそもそもどっちサイドの倫理で動いているのかっていうのが常に曖昧に描かれている。当然9課のためにいろいろやっているんだけど、同時に、非常に政治家であり官僚的な人物でもあるから。「トグサ・荒巻組」と「草薙・バトー組」がなんとなくうまく共存しているのが9課なんだけども、これが同じ方向を向けなくなる展開っていうのが、結構ありえるんじゃないかなと思ったんですよね。

宮台:あり得るね。でも、もっと複雑かも知れない。オールヒューマンであるトグサが、むしろポストヒューマン側につく可能性がある。最終12話の主人公が実はトグサだったね。彼はオールヒューマンなんだけど、12話後半で分かるように、トグサには、最初のポストヒューマンである少年のビジョンや感覚が全て乗り移る。共同身体性や共通感覚が乗り移る。そこではトグサが少年に「なりきる」存在なんだ。more then humanか、普通のhumanか、という区切りは、義体化されたサイボーグかどうかという問題では、もはやない。だからこそ、まさにトグサが次以降のキーパーソンになる。もしかすると、トグサは「オールヒューマンなのに」少年を通じてポストヒューマン側につくかもしれない。むしろ、そうあってほしい。

ダース: そうなんですよね。そのトグサのポジションがすごく大事だなと。僕は他の9課のキャラも結構好きなので、もう少しみんなにも活躍シーンを描いてほしいと思いつつ(笑)、今回はかなりすごいスピードで、少佐(草薙素子)、バトー、トグサ、たまにサイト―みたいな感じで描かれているから、テレビシリーズでどのくらいのボリュームで作る予定なのかっていうね。

 Netflixって、わりとクリアカットに、無駄な話をあまり入れない傾向があって。今回はバトーの銀行強盗編(※第7話「はじめての銀行強盗」)という……。

宮台:あそこだけは番外編だったね!

ダース: うん。ほんわかストーリーになっていて(笑)。

宮台:苛烈な話になる前の小休止ではあったけど、なくても良かったかもしれないね(笑)。

ダース:なくても良かったんですけど、その話では、2045年の日本がいるのかと言うと、宮台さんがずっと言っているような、完全に世界から取り残された三流国になっている、すごく悲しい様子がほのぼのとしたタッチで描かれていて(笑)。でもリアリティがあるんですよね、あれに出てくるおじいちゃんおばあちゃんたちって。あんな未来の話なのに、ほぼ今と同じような生活を送っている。前段でアメリカだったり南米だったりに行っているので、そこで行われている生活と日本が全然違うっていうのが、攻殻機動隊の背景としてーー「日本はもう終わってます」って背景でーー作られているっていう。それが第11話・第12話の、山奥で森の中に入っていく、「そんな場所が残っているのも日本くらいだ」「ここ当然電波が遠いですよね」っていう(笑)。最近映画を作る上で必ず問題になる、「携帯通じなくなるのをどう描くか」みたいなのをお約束としてちゃんとやってくれていて。(笑)。

宮台:そうだよね。「携帯通じない場所あるんだ」みたいなセリフでね(笑)。

ダース: そう、それをちゃんと言ってくれていて(笑)。こういったサービスを入れておいたほうがいいよなと思って、すごく微笑ましいんですけども。

 とにかく今後、ポストヒューマンがユタ的なものだとして考えたときに、ユタというのはある種の感染力を持った人だと。これに感染するのが誰かってなった時に、トグサが……。

宮台:そう。もう感染しているよ。トグサがポストヒューマンになるかもしれない(笑)。

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