宮崎駿監督は『もののけ姫』で何を描こうとしたのか 公開当時よりも響く、作品に込められたメッセージ

 宮崎監督がここで描くのは、このように人間という存在が宿命的に背負っている原罪であり、その子孫たちが知らないうちに引き受けてしまう業(ごう)である。人間は、自分たちが生き延び、社会や科学技術を発展させていくことで、多くの生命や環境を犠牲にしてきた。われわれ観客も、たとえ自分自身が積極的に手を下していなくとも、文化的な生活をすることで、知らず知らずそのシステムに加担しているはずだ。

 何も悪さをしていないはずの主人公アシタカが西方の人間たちの悪さによって呪いを受けるという設定は、一見すると理不尽に思えるが、彼が人間である限り、それは背負わなければならないものだったのだ。そして、アシタカが正しくあろうとする者だからこそ、その怨念を引き受けることになったともいえる。作中の砂金の描写や、ジコ坊らがそうであるように、多くの人間は、自分の享受する利益だけを追い求め、罪や責任については無頓着である。そのように自然を破壊し続ける呪われた存在である人間は、どう生きるべきなのだろうか。

 ここで示された、全人類、全生命にまで共通する、自然と人間存在にかかわる深刻なテーマは、すでに映像作品で解決できるような範疇を超えたものではないだろうか。この難問を前にして、『もののけ姫』のラストは、正しい心を持った者が犠牲の精神を発揮する、感動的なクライマックスへと繋がっていく。しかし、それは自然と人間の間に立とうとしたアシタカの敗北をも意味していた。

 もともと主人公のアシタカは、「曇りなき眼(まなこ)で見定め、決める」というセリフを吐くように、決断をするまでは実質的には傍観者の立場であった。対立の被害を受けた者ではありながら、部外者であることには変わりない。そしてそれは、初めて両陣営の状況を見ることになる観客の立場にも近い。そんなアシタカは、人間の果てなき蛮行を止めることができず、せめて自然の神に謝罪することが、唯一の誠実な態度だったのだ。

 この後味が悪く、不完全燃焼な結末というのは、宮崎監督が必死に考え抜いた末の、観客に対する誠実な態度であったという解釈ができるだろう。実際、この自然破壊の問題は、現代ではさらに深刻化していて、人間自体を滅ぼしかねないところまでいってしまっているのである。それを考えると、問題を先送りし、いつまでもこの対立構造を観客に考えさせる必要があるというのは理解できる。だからアシタカは、「サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。ともに生きよう。会いにいくよ」と述べるのである。われわれ現代人にとって、自然とはそういう付き合いをして、できるだけ迷惑をかけないように生産活動をコントロールしていくしかないのだ。

 とはいえ、そのような結論は、『もののけ姫』が発表される以前より、多くの人が分かっていたのも確かだ。宮崎監督は、この問題に解決を与えるべく考えに考えた結果、一周して戻ってきただけのように思えてしまう。だがそれは、問題から目を逸らしたり無視し続けるよりは、はるかにいい。経済活動を第一ととらえ、子孫のことをまったく考えずに公害を垂れ流し続けることを、何の罪とも、恥とも思っていないような企業や政治家、それを正当化するようなモラルのない市民よりは、はるかに誠実である。打算やあきらめ、無関心、迷妄などがはびこる社会において、まず大事なのは、曇りなき眼を持つことなのだ。

 神を殺し、許されぬ呪いを受けたエボシは、われわれの姿でもある。彼女は、「ここを、いい村にしよう」と述べる。それもまた、われわれがたどり着かなければならない当たり前の結論である。しかし、実際の世界はそうなってはいない。いまだに一部の者による利権の争いによって自然は壊され、犠牲になる人々が絶えない。そんな狂気が蔓延するなかで、『もののけ姫』のたどり着いた、ある意味で凡庸なメッセージは、公開時よりもいま、最も理性的で重要なものして輝くはずなのではないか。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『もののけ姫』
公開中
原作・脚本・監督:宮崎駿
プロデューサー:鈴木敏夫
音楽:久石譲
主題歌:米良美一
声の出演:松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、西村雅彦、上條恒彦、美輪明宏、森 光子、森繁久彌
(c)1997 Studio Ghibli・ND

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