宮崎駿監督は『もののけ姫』で何を描こうとしたのか 公開当時よりも響く、作品に込められたメッセージ

 そんなストーリーの製作の裏では、さらに驚くべき状況が展開していたようだ。当時のメイキング映像によると、スタジオがいままさに『もののけ姫』のアニメーション製作を行っている最中に、宮崎監督はまだ物語の結末部分を思案していたというのである。しかも、作品世界の複数の対立する勢力の図を描きながら、設定レベルの地点に立ち戻りつつ考え直しているのだ。まるで個人作家による連載漫画のようである。これは巨額の製作費と時間が投じられた劇場アニメーション製作のスケジュール管理として、そして製作の手順として、通常あってはならない事態であろう。

 だが、ここまで追い込まれてもまだ物語に執着する監督の姿勢から、商品としてのアニメでなく、妥協なく作家としての表現を行うという、監督の気合いが垣間見えることも確かだ。そして、このような無理を押し通すことができるまでに、宮崎監督は大きな存在になっていたということもいえよう。

 そんな燃えるような意志というのは、反逆的にも感じられるユニークな設定からもうかがえる。アニメーション作品の舞台として、日本の室町時代を選んだというのも珍しいが、さらに興味深いのは、学校の歴史教科書に載っているような、歴史上の有名な人物が出てこないということだ。もともと宮崎監督は本作を「アシタカせっ記」というタイトルにしようとしていた。せっ記とは、監督の言によると、耳から耳へと語り継がれた物語なのだという。つまり、世の中には歴史書や教科書に載らないような無数の物語が存在していたはずだという主張である。

 国が正統な歴史書と定めたものを“正史”と呼ぶ。そして日本に伝わる最古の正史は『日本書紀』であり、その内容は天皇の命により皇族によって編纂されたものである。そこでは、権力者の側からとらえた歴史とともに、天皇の当時の地位を権威づける、国づくりの神話の数々が記されている。このように、ある意味歴史とは、一部の者たちの力によって定められてきたものだといえよう。そもそも、民衆には教育が与えられてこなかったため、長い間文字によって歴史を残すことができなかったのだ。だからこそ宮崎監督は、民衆のための耳伝えの物語こそが語られなければならないと考えたのだろう。それはもちろん、権力者が『日本書記』で行ったように、神話の構築も含む。そしてそれは、アウトサイダーの神話といえるものだった。

 本作の主人公は、大和朝廷が迫害していた蝦夷(えみし)の一族の村に住む青年アシタカである。アシタカは、タタリ神と呼ばれる怨霊と化した大猪を退治すると、片腕に強い呪いを受けてしまう。その怨念は強く、祈祷で払いきれるものではなかった。呪いを解くためとはいえ、半ば厄介払いされるようなかたちで村を出ることになったアシタカは、タタリ神がやってきた方角である、西へ西へと、果てなき旅に出発することになる。たどり着いたのは、神の棲む原始の森林と、“タタラ場”と呼ばれる、製鉄を生業とするコミュニティだった。

 室町時代は、ちょうど数々の反乱が起きた“一揆”の時代でもあった。百姓が起こす土一揆のほか、山城国一揆のように地侍と農民らで守護大名の権勢を退け、8年にも渡って朝廷から切り離された自治組織を運営した例もある。ミリタリー好きな宮崎監督は、そのあたりの史実を基に、武器製造工場である製鉄施設の運営者たちの反乱による、ある意味で理想郷といえる小さな国家を創造したのだろう。

 タタラ場は、朝廷とも地侍とも異なる独立した団体で、女性の統率者であるエボシ御前がトップに立っていることから、男女の差別がなく、女性が働くことを禁じられていた当時の製鉄づくりにおいて、女たちが前に出るという改革を成し遂げている。日本の伝承では、実際に賊の首領を女が務めていた例が複数見られるように、民衆のレベルでは、じつは朝廷などよりも女性の地位が高い場合があったのではないのか。さらにタタラ場では、大きな病気を患った者たちが見捨てられず治療を受ける福祉的なサービスがあり、そこで生きる一般の労働者は天朝(天皇)の存在すら知らない。知らなくても問題もなく生きていけるのである。これは、あり得たかもしれない日本の一つの歴史であり、あり得たかもしれない日本社会のかたちであるように見える。

 製鉄業を営むために必要になってくるのが、燃料となる大量の木材だ。エボシたちは森の木を切り進み、自然を破壊していく。それは、古来から日本で信じられてきた、自然の様々なものに精霊や神々が宿るというアニミズム的な信仰への冒涜でもあった。

 “国崩し”という異名をとる大陸伝来の石火矢を改造した武器を持ったエボシや、彼女に一時的に協力する、ジコ坊率いる怪しげな“石火矢衆”など、科学の知恵を得た人間たちにとって、自然の力はもはや脅威ではなくなってきている。やがて山の動物たちや木々はその多くが人間に利用されることになるだろう。そして、新たな木材を手に入れるための計画的な植林が行われるようになっていくはずだ。そのとき、森や山々はかつてのような信仰の対象というより、その大部分が単なる経済活動の場となってしまう。これが作中で描かれる“神殺し”の全貌である。タタラ場を統率するエボシは、まさにその宿命を背負わなければならない、呪われた人間だといえよう。

 さらには公方や地侍なども目を光らせ、いつでも利権を得ようと企んでいる複雑な対立構造が存在する地にやってきたアシタカは、やがてその身を喰らい尽くす呪いを背負いながら、森で巨大な山犬たちとともに生きている少女サンと出会い、山とタタラ場の価値観の間で心揺れることになる。

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