「自分へと向かうラブストーリー」があってもいい 『ハーフ・オブ・イット』の知性溢れる魅力

『ハーフ・オブ・イット』の知性溢れる魅力

 レズビアンである中国系アメリカ人の女性を描いた『素顔の私を見つめて….』(2004年)から、おおよそ15年もの時間を経てアリス・ウー監督が製作した本作『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』では、同じくレズビアンである中国系アメリカ人のティーンの物語が描かれる。勉強家のエリー(リーア・ルイス)は代筆業で小銭を稼いでいたが、あるとき同級生であるポール(ダニエル・ディーマー)から、ラブレターの代筆を頼まれることとなる。しかし、相手の女性がエリーの片思いするアスター(アレクシス・レミール)であったことから、3人の関係性はやがて複雑に発展してゆく。

 同じくゲイのティーンを描くアメリカ映画としては、ここ最近では『Love, サイモン 17歳の告白』(2018年)があったが、同作でも主人公がメール交換によってお互いに何者かわからぬまま恋の相手との仲を深めていく。彼らは知性とユーモアを湛えた言葉のやり取りだけで惹かれていき、ついにはその恋心が、自分が何者であるかを周囲へ打ち明けるに至らせる。それはラブストーリーをメインプロットに持ちながらも、家族や友人との関係性にも焦点があてられた自己受容の物語であった。

 かつて一つの身体であった半身こそが運命の相手であり、私たちは人生で失った片割れを探し求めるのだ、とエリーによるボイスオーバーが美しいアニメーションと共に流れる。それはプラトン的思想にもとづくとも言えるが、ルカ・グァダニーノの『君の名前で僕を呼んで』(2017年)にも同じエッセンスを感じ取れる。同作における愛し合う青年2人は、お互いがお互いの半身であるかのように名前を呼び合う。オリヴァーはエリオをオリヴァーと。エリオはオリヴァーをエリオと。「僕は君であり、君は僕だ」と言うかのように。「なぜ僕は僕であり、君ではない?」と、『ベルリン・天使の詩』(1987年)で囁かれていた哲学が、ここに呼応する。エリーが初めてアスターに贈ったラブレターでその一節を引用したヴィム・ヴェンダースの『ベルリン・天使の詩』は、人間のそばにいながらも愛を告げることのできない透明な天使の存在にエリー自身が重ねられているだけでなく、底流するこの問いによって、地続きに繋がっている。

 しかし、「みんな自分の片割れを必死に捜しすぎ」のエリーの一言によって、そんなロマンティックな思考の冒険に亀裂が入る。冒頭ですでに本作が典型的なラブストーリーの枠におさまらないことが宣言されている通り、『ハーフ・オブ・イット』は完璧なパートナーを見つけて結ばれる物語ではなく、不完全な自分自身と出会い、受け入れる物語であるように思える。真の主題は、自分の言葉を獲得すること、自分の言葉で語ること、そして自分を見つけることなのではないだろうか。なぜなら、映画で描かれる登場人物たちはそれぞれが言葉の問題を抱えているからである。たとえば、エリーの父親は日頃から映画ばかり鑑賞して勉強しているものの、英語が苦手で誰ともなかなかコミュニケーションを取りたがらない。たとえば、ポールは口下手で言葉を身につけておらず、誰かに代弁してもらうことに頼りきっている。たとえば、アスターは恋人に質問をされても彼女が答える前に結論を出されてしまうように、周囲の期待に応える役を演じ、言葉を聞き入れられない。たとえば、エリーは偉人の言葉を引用してばかりで、自分の言葉で話す勇気を持てずにいる。

 彼らの言葉の欠如を埋める役割を担うのがここでは文学や映画の豊潤な引用であり、その要素が『ハーフ・オブ・イット』の知性溢れる魅力をより一層高めている。エリーが持っていたカズオ・イシグロの小説『日の名残り』のジェームズ・アイヴォリーによる映画版では、想いを寄せる女性への感情を抑える気高い執事が、映画のなかで最もその女性と接近したのは彼が本を抱えている瞬間であった。芸術が人と人を近づけ、さらには精神的な結びつきを深めていく力があることを信じるがゆえの粋な引用であろう。かたわらでアスターを見つめていただけのエリーは、『日の名残り』の本を落とすことで、初めて彼女と向かい合うこととなる。

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