映画『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』公開に寄せて
ピーター・バラカンが解説、“ブルーノート・レコード”が唯一無二のレーベルとなった理由
日本におけるブルーノート
――改めてになりますが、バラカンさんとブルーノートとの出会いについても教えてください。
バラカン:ブルーノートを最初に意識したのは大学を卒業した直後、ロンドンのレコード店で働いていた時、ジャケットがえらくカッコよかったトランペット奏者・ドナルド・バードの『BLACK BYRD』(1973年)という、わりとポップなアルバムを聴いたのがきっかけだったと思います。でもそこから掘っていったかというと、そういうわけでもなかったんです。
大きな出来事は1990年頃にプロデューサーの行方均さんから連絡をいただいて「ハモンド・オルガンがフィーチャーされている曲のコンピレイションを作らないか?」と誘われたことですね。僕もハモンド・オルガンは大好きだったので「ぜひやりたい」と返答しました。でも当時、奏者といえばジミー・スミス、ジャック・マクダフくらいしか知らなかったです。
――約30年前はそれだけ情報がなかったんですね。
バラカン:なのでブルーノートのカタログを取り寄せて、CDを50枚ほど選んで資料としてリクエストしたんです。結局その半分くらいのマスター・テープのコピーをアメリカから取り寄せてくれて、それをカセットに落としたものを半年くらい車で聴きました。
その中から選曲したものがコンピレイション『ソウル・フィンガーズ~ピーター・バラカン編』です。1曲を除いてすべてがブルーノートの音源でした。ちょうどその時期っていうのはロンドンのクラブでジャズをかけて踊る、レア・グルーヴの流行が起こる少し前。僕はそういう流れは知らなかったんですけど、たまたまタイミングが合ってた。1500枚くらいしかプレスしなかったのに1万枚くらい売れちゃったんです。続編はぜんぜん売れなかったですけどね(笑)。だから付き合いは深いですよ。
――他のレーベルとブルーノートの違いはなんだと思いますか。
バラカン:映画にもあったように録音のクオリティが良いです。さらにアルフレッド・ライオンはリハーサルにもギャラを払って、しっかり打ち合わせをさせるんですよ。バックのミュージシャンの人選もしっかりしている。知らなくてもていねいに作っているのがわかるので、聴きごたえがあるんですよね。「このくらいでいいや」を感じない。
これを今やろうと思ってもできないですよ。ちゃんとしたレコーディング・スタジオでやろうとしたら、今の世の中はそんなに甘くないからなあ(笑)。レコード業界の規模やメディアの在り方も大きく変わりましたし。
――ブルーノート自体も倒産を経て、1967年以降はリバティーやEMIなどに身売りされていきます。
バラカン:70年代の後半以降は新作も出さなくなって、旧作の復刻もなかったと思います。84年にブルース・ルンドヴァルが新社長になって復活し、復刻プログラムが開始されるんですよ。復刻や未発表音源の発掘は映画にも出てくるマイケル・カスクーナがやっていました。ノーラ・ジョーンズなどの新人を紹介するのはそれから10年以上あとの話ですね。
1985〜6年頃はアメリカよりも日本の方が積極的に復刻作を出していました。山中湖でおこなわれた『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル・ウィズ・ブルーノート』というフェスにもかなりお金を出していたはずです。日本はブルーノートが大好きな評論家の影響力もあって、60年代以降のジャズの熱狂的なファンがどの国よりもおそらく多い。だから日本向けにこの映画を作ればもっと違うストーリーになるかもしれません。
――現社長のドン・ウォズも映画の要所で印象的なコメントを残していました。
バラカン:彼があれだけブルーノートの中身を知っていることにはおどろきでした。80年代に『Was (Not Was)』というディスコみたいなダンス・シーンから出てきた人ですよね。そのあとベーシストとして他の人のレコードで弾いたりしてから、プロデューサーになっていったんです。最近だとローリング・ストーンズの仕事もやっていますね。プロデューサーの役割は良いメンツを集めること、和やかに録音できる雰囲気を整えることだと思ってます。彼はそういうことに長けているみたいですね。