高畑勲×宮崎駿『太陽の王子 ホルスの大冒険』の“失敗”が、日本のアニメーションに遺したもの

社会的な問題意識を投影


 本作は、2018年に惜しくもこの世を去った高畑勲監督の最初の監督作品である。アニメーションによって丹念な日常の描写を行い、「パクさん(高畑)に青春時代を捧げた」と語る、本作を含む複数の作品でレイアウトなどを担当し右腕となった宮崎駿監督らとともに、 『アルプスの少女ハイジ』(1974年)、『母をたずねて三千里』(1976年)などでTV名作劇場シリーズの根幹を作り上げ、『火垂るの墓』(1988年)や『おもひでぽろぽろ』(1991年)などのスタジオジブリ作品で日本を代表する映画監督の地位を確固たるものとした人物だ。『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)は、スタジオジブリ作品として唯一MoMA(ニューヨーク近代美術館)に永久収蔵されることになった。東京国立近代美術館で開催されている『高畑勲展 -日本のアニメーションに遺したもの』では、その演出の業績が多数の資料とともに展示されている。

 だが、宮崎駿が冗談めかして、「彼の通ったあとは、ぺんぺん草も生えないですからね」と語るように、完璧主義者で理想の高い高畑監督のこだわりは、用意された製作環境の限界をはるかに超え、採算を度外視してしまうような面も持っていた。そんな資質が、初監督作である本作『太陽の王子 ホルスの大冒険』 から、すでに発揮されていた。

 本作は、アイヌ民族の伝承を基にした戯曲『チキサニの太陽』を、原作者でもある深沢一夫(『母をたずねて三千里』)自身が翻案し、太陽の剣を持つ少年ホルスと悪魔グルンワルドと戦うという物語を描いていく。

 高畑監督は、本作に関して、このように振り返っている。「労働や生活は、本来たとえ苦しくとも、同時に喜びを意味するものでありたいと思いますが、残念ながら現在私たちにとってそれらはますます灰色となりつつあります。 私たちは、民衆の“生きるよろこび”とでもいうものを、三つの音楽シーンによって表現し、これを“悪魔”の手から守るに価するものとして、作品の基調にしたいと考えました」( 高畑勲著『映画を作りながら考えたこと』徳間書店)

 本作の作画監督だったアニメーターの大塚康生は、著書『作画汗まみれ』(文春ジブリ文庫)のなかで、本作が高畑監督自身が副委員長を務めた東映動画の労働組合の人々が主導する作品であったことを明かしている。高畑監督は、この作品に関して演出部以外の部署からも作品についての意見を募ったという。

 本作の製作が開始されたのは、ベトナム戦争が勃発した時期だった。フランスでは、ジャン=リュック・ゴダールがマルクス主義への傾倒から、絶対者としての監督という立場をとらない、平等な製作方法をとるジガ・ヴェルトフ集団を形成したように、高畑監督もまた、ここでそのような試みに近い方法を試したのかもしれない。そして森康二がデザインを担当した、本作のヒロインであるヒルダは、高畑監督が信奉するロシアのアニメーション『雪の女王』(1957年)のヒロイン、ゲルダからとられているように、それは資本主義へ反発することなど、共産圏へのある種のシンパシーともつながり、さらに中央の権力に反目するアイヌをモデルとした集団の戦いを描く本作の内容とも重なっていく。

 だが同時に、大塚康生の力を借りながら高畑監督が絵コンテの内容を細かく指示するなど、その演出が細部にまで行き渡っているという特徴もある。例えば、劇中でホルスが崖から転落する間際、縄がついた斧を崖の上に投げることで命が助かるというシーンがある。高畑監督は絵コンテによって、ホルスが綱を手繰り寄せて崖を登っていくと、その斧をつかんでいたのは、悪魔・グルンワルドだったことが明らかになるという箇所を、丁寧な指示によってサスペンスフルに演出している。このように悪魔が自分の命綱を握っていたことが分かるという過程は、“悪魔”というかたちで表された、行き過ぎた資本主義や権力者に若者の命が握られているという、高畑監督による社会的な問題意識が投影されているように思われる。

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