『海獣の子供』なぜ賛否を巻き起こす結果に? 作品のテーマやアニメーション表現から考察

『海獣の子供』が描き出したもの

 本作が語るのは、原作から枝葉のエピソードをいくつか削ぎ落とした、より主人公の琉花にフォーカスした物語だ。他人になかなか自分の気持ちをうまく伝えられない琉花は、夏の間にジュゴンに育てられたという不思議な二人の少年、海(うみ)、空(そら)と出会う。

 二人の少年、海と空が交わす、言葉を超えた不思議な意思伝達を目の当たりにした琉花は、クジラやイルカが超音波を放出して、図像のような複雑な情報を一瞬で送り合っているという、“ソング”(エコーロケーション)と呼ばれるコミュニケーションがあることを知る。それに対し、人間はいかに、まだるっこしい不正確なやりとりをしなければならないのか。そこで気づくのは、琉花に与えられた欠点や課題というのは、程度の差こそあれ、じつは人間すべてに共通するものではないのかということだ。

 そこで得られるのは、宇宙との同一化であり、宇宙という存在を、マクロとしてもミクロとしても感じるという想像力である。宇宙の物質と人間を構成する物質に共通したものがあるのなら、人間と宇宙は、ある意味で“同じもの”と考えることができるかもしれない。そう考えると、地球に存在するあらゆるものは、全て人間とつながっているといえるはずである。“自分と違う”ことで傷つけ合ってきた人間同士も、いつか分かり合えるかもしれない。そのような希望を本作は示している。

 そういったテーマは、会話の応酬でなく映像によって観客に伝えようとするような、本作の表現手法と同期しているように感じられる。ある事象や考え方というものを、映像と音によって、つまりクジラの“ソング”として理解しようとすること。これが本作のやろうとした最もチャレンジングな部分であろう。

 だが、琉花の日常における問題を主軸に置いたときに、彼女が海洋で遭遇する壮大な出来事についての落差が、あまりにも大き過ぎると感じるのも確かだ。SF作品の表現のようでもあり、また宗教的な儀式のようなものでもある現象のなかに琉花が飛び込んで体感する、宇宙的ともスピリチュアルともいえる現象というのは、言うまでもなく、実際の自然の仕組みとは明らかに異なるものである。

 その荒唐無稽で異様なイマジネーションの世界というのは、『新世紀エヴァンゲリオン』において、主人公の碇シンジが巡ることになった精神世界に近いといえるし、その前段階にある『AKIRA』や、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、また、近年の松本大洋の漫画作品における、エキセントリックなイメージを連続させていく手法が想起される。

 もう一つ特徴的といえるのは、エコロジカルな要素が中心に置かれているという点であろう。しかもそれは、人間が住みやすい環境保護ではなく、人間をあくまで自然のサイクルのごく一部として捉え、生物全体の繁栄する環境保護を目指す「ディープ・エコロジー」の思想に寄っているように見える。これは、宮崎駿作品の世界観と共鳴する部分だと感じられるところだ。とくに『風の谷のナウシカ』との類似は多い。

 説明が少なく、難解だと思われがちな本作だが、原作自体が一部のアニメーションや漫画作品によって描かれてきた思想や表現手法と、時代のなかで影響を受け、また共鳴しており、アニメーション版である本作は、それが再びアニメーションに還流したものになっているのである。その意味に限っては、本作における“海の秘密”というのは、かつてないものというよりは、むしろ複数の作品の表現やテーマに、異なる分野の要素を加えつつ再調整したものだと捉えることができる。その意味で、この作品はある系統の漫画・アニメーションの、一つの集大成になり得る題材だったといえるかもしれない。

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