暴れたいのに暴れられない人へ 『キャプテン・マーベル』の熱いメッセージ性と軽快なユーモア

 「女の子だって暴れたい」。これは日本で大人気のアニメ『プリキュア』シリーズの1作目、『ふたりはプリキュア』の企画書に記されていたコンセプトである。それまで少年向けとされていた「バトル」に重きを置くことを示しつつ、「暴れさせてもらえない」という現状に対して「暴れたい」と女の子の目線からメッセージを訴えかける名コピーだ。そして今回ご紹介するマーベル最新作『キャプテン・マーベル』(2019年)も、この一言がベースにある映画である。感情をあらわにして暴れることの必要性、そして暴れることで見えてくる可能性。「あなたが様々なしがらみの中で押し殺している『暴れたい』という感情は、実は素晴らしい可能性に繋がっているかもしれない」というメッセージは、単純だが、熱くて真っすぐに胸を打つ。

 その一方、本作はマーベル映画の中では変化球でもある。特に前半部分は今までのマーベル作品に慣れていると面食らうことだろう。いきなり宇宙のどっかの星から物語が始まり、矢継ぎ早に固有名詞が飛び交う。しかも主人公の能力が明かされないのだ。本作はキャプテン・マーベルというMCU初登場キャラクターのオリジン(原点)を、つまり「どういう人物で、どういうスーパーパワーを持っているのか?」を描く作品だが、今までのマーベル作品、たとえば『アイアンマン』(2008年)や『ドクター・ストレンジ』(2016年)と比べると、構成が全く逆なのだ。

 クリー人という宇宙人の特殊部隊の女隊員ヴァース(ブリー・ラーソン)が、ある任務のトラブルで1995年の地球へやってくる。彼女と敵対する宇宙人・スクラルとの追跡戦の最中、ヴァースは自分が地球人らしいと悟るが、しかし過去に関する記憶は断片的にしか思い出せない。地球の秘密捜査官ニック・フューリー(サミュエル・L・ジャクソン)とコンビを組んで、本当の自分を辿ろうとするが……といった話で、正直、最初は何が何だか分からない部分もあった。そして「どういう人物で、どういうスーパーパワーを持っているのか?」というオリジンの要素は、物語の後半で回収されることになる。つまり「人柄や能力を示した後に、何らかの困難に立ち向かう」という過去作とは全く逆の構成なのだ。かなり思い切った構成だが、私は大いに気に入った。

 主人公のヴァースは地球人としての記憶を失っているが、クリー人としての記憶は持っている。そこで強調されるのは感情を抑え込むこと、「暴れさせてもらえない」ことだ。しかし地球で自分の過去に触れるうち、クリー人としての生きる中で押し殺していた、自分自身の可能性に気がつく。そして最終決戦の時、彼女は自らの能力を全開にする。それまでの軍隊格闘技っぽいアクションではなく、力任せにブン殴り、突っ込んで、ビームを打ちまくり、「暴れる」のだ。暴れれば暴れるほど力が湧いてきて、当の本人であるキャプテン・マーベル自身も戸惑うのが楽しい。そして暴れるうちに、自分自身の生き方も決まってくる。つまりオリジンの重要な要素である「どういう人物で、どういうスーパーパワーを持っているのか?」がクライマックスで分かる構成になっているのだ。今までの常識をブチ破って、暴れるだけ暴れたら本当の自分が確立できたという構成は、新キャラクターの紹介として、何より本作のメッセージを伝える形として、非常に効果的だと言えるだろう。

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