菊地成孔の『天才作家の妻 40年目の真実』評:よく言うよね<愛すべき佳作><小品だが良品>でも、今時そんなモンあるのか?この作品以外で

「受賞スピーチのクリシェ(決まり文句)である」

 「この受賞は、私一人のものでは無い(その後、多くは家族の名を呼び、感動を誘う)」と云う、アレを、受賞スピーチ界の北の極点であるノーベル賞を描いて、根本から現代の問題として揺さぶってみせる物語は、やりようによっては、前述の「夫婦という階級制度」とのコンフリクトも含め、主にフェミニズムの問題として、どこまでもシリアスに、どこまでもエグく描くことが可能だろう。しかし、作品はそうならない。ゴシップ記者すれすれの伝記作家を演じるクリスチャン・スレーターの見事なサポートも含め、物語は、社会性への漏洩を許さず、夫婦愛が発する笑いと涙、危機とその回避、安楽と許し、と云った世界から一歩も出ないまま、小さなどんでん返しを繰り返して、紛うかたなき、苦いハッピーエンドを迎える。

グレン・クローズにスタンディングオベーションを

 『ガープの世界(82)』も、『危険な情事(87)』も、共にフェミニズムの映画である。厳密に言えば、かなりツイストしたフェミニズム映画で、前者は極めて難解かつ宗教的な女難喜劇であり、後者は、かなり悪どいリビドーに直結される、エロティック・サイコ・サスペンスだったが、根底にフェミニズムの問題が通奏されているという点では、何と本作とも同様である。

 「とうとう誰それがオスカーを獲る」というトピックは非常にポップだ。「絶対に、死んでも、こんな女とセックスしたいとは思わない」「と、男たちに言わせない」という、恐ろしい狂女の性的魅力を、自分以外の誰ができるのかと云った、あらゆる適性で演じきった『危険な情事』から30年後の彼女の円熟は、気骨さえ感じる本当に素晴らしいもので、個人的に筆者は、彼女がこれで初戴冠することを強く希望している。

 72歳の女性としての、あらゆるリージョンを完璧に演じ、しかも激昂するようなお安い名演技は全く行われない。名優、ジョナサン・プライス演じる、男根が黄金だった時代を生きてしまった男の弱さと狡さと哀れを、楽勝でパッキングした、しかし誠実な善人である夫はスピーチで言ってしまう、前述のクリシェを。「この賞は妻と共にある。妻がいなかったら書ききれなかった。世界一愛する、最も大切な妻を紹介します」この、すべてのフェミニストが対峙しなければいけない、全時代的で悲しく美しい偽善と抑圧。その瞬間にグレン・クローズの堪忍袋の尾がとうとう切れる。

 ここでの演技は、全女性が必見、全夫婦、特に老夫婦に特別割引券を、と言うのは容易すすぎるだろう。SNSや周辺通信テクノロジーの完全な定着によって、ほとんどの脆弱な孤独が一掃されてしまった世界で、我々は、神経症的に肥大した孤独感に苛まれながら、何かをクリエイトし、表現し、発信し続けている。そんな我々が「自分は一人ではない」と言うとき、それは、ファンタジックなまでのヒューマニズムに立脚していることが多い、しかし、夕食のカレー1杯でも、共作している夫婦は多い筈だ。あなたの言葉は、様々な他者の言葉の集積かもしれない。ジョナサン・プライスの偽善と、グレン・クローズの抑圧と葛藤、そこからの暴発は、我々現代人が誰しも抱いている構造的なもので、社会性とすら絶対関係ではない。人類学的な根底なのである。そして、この構造的な軋轢から我々を救うのは、結局、愛と死しかない。本作が<愛すべき小品>であること、その小ささこそが我々を暖める。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『天才作家の妻 40年目の真実』
全国公開中
監督:ビョルン・ルンゲ
出演:グレン・クローズ、ジョナサン・プライス、クリスチャン・スレーター 
後援:スウェーデン大使館
配給:松竹
2017年/スウェーデン、アメリカ、イギリス合作/英語/101分/シネスコ/カラー/日本語字幕:牧野琴子/原題:The Wife
(c)META FILM LONDON LIMITED 2017
公式サイト:ten-tsuma.jp

関連記事