『映画刀剣乱舞』を傑作たらしめた小林靖子による脚本 “内と外”に向けた構造を読み解く

『映画刀剣乱舞』小林靖子による脚本を読み解く

 多くの観客が絶賛する小林靖子脚本は、原作ゲームを知らない外部とファンという内部、2つの観客に向けて映画を鮮やかに説明していく。刀剣男士内部の意見対立によって一人一人の性格を際立たせ、初めて見る観客にも彼らの個性を強く印象づけていく。またキャプテン・アメリカがアメリカ現代史に、ソーが北欧神話にルーツを持つように、実在した刀にその出自を持つ刀剣男士たちに過去の記憶を語らせ、その葛藤を描くことで観客の中の日本史と結びつける。小林靖子脚本は、ともすれば女性向けであるというだけで偏見を持たれがちなゲーム文化の世界観について、ファンの側に立ち、このサブカルチャーの美しい機微を外部に対して代弁するように、力強く繊細に語っていく。

 そしてもう一つの説明は、「刀剣乱舞」という世界観を愛するファンたち、いわば「内側」に向けた外部の世界の説明、自分たちの文化が現実のどの部分に位置するのかという説明である。それはかつて押井守が、特車二課という警察組織の末端で生きる現代的若者たちの日常を描いた『機動警察パトレイバー』という幸福な作品の外部に、劇場版映画という非日常空間を使い、冷たく硬い国家や政治という大きな枠組みを接続した手法に似ている。刀剣男士たちのリーダー・三日月宗近は、まるでパトレイバーに登場する食わせ者の管理職、後藤隊長が思想犯や愉快犯と向き合うような韜晦と老獪さをもって、野望のままに歴史をも変えんとする魔王・織田信長と対峙する。山本耕史や八嶋智人という優れた俳優の演技力はこの現実の混沌、複雑さを表現するために必要だったのだ。

 鈴木拡樹演じる三日月宗近は劇中で「今は守りたいものが増えるばかり」と微笑む。守りたいものとは、原作ファンが愛する刀剣男士たちの世界観、サブカルチャーの小宇宙だけではない。山本耕史の織田信長が見せる残忍さとぎらついた野望、八嶋智人の豊臣秀吉が見せる醜悪で人間くさい欲望、それらの美も醜も含めた現実を「守るべき歴史」と三日月宗近は語り、美しい虚構である刀剣男士は、残酷な歴史という現実にありのまま立ち向かうために存在することを示す。踏み折られた小さな草花と織田信長を等価なものと見なす三日月宗近は、まるで『ベルリン天使の詩』が描く、あるいはヴァルター・ベンヤミンが論じる歴史の天使のように見える。彼が魔王信長に一歩も引かず歴史哲学のテーゼを語る時、ゲームと時代劇、サブカルチャーとメインカルチャーは1本の大河のように混じり流れていく。それは過去の優れたサブカルチャーがいつも目指してきた場所なのだ。

 小さな島宇宙の中で育ったサブカルチャーが、蛹が羽化するように普遍性の階段を上る、幼年期の終わりを迎える瞬間が文化史の中には何度もある。押井守は『ビューティフル・ドリーマー』や『機動警察パトレイバー』でその瞬間を迎えたし、宮崎駿にとっては『ルパンⅢ世 カリオストロの城』から『風の谷のナウシカ』にかけての期間だった。庵野秀明にとってはたぶん、痛みや失意も含めて旧劇場版のエヴァンゲリオンだったのではないかと思う。『刀剣乱舞』というコンテンツにとって、それは今だ。もしもあなたがかつて何かのサブカルチャーを愛した子供であったなら、「上手く言えないけどとにかく樋口真嗣という特撮監督が撮る怪獣は他の怪獣映画と違うんだよ」と周囲に熱弁したことがあるなら、クレヨンしんちゃんの劇場版映画「嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」が秘めた誠実さに打たれたことがあるなら、いつの日かこのクイーンという風変わりなバンドの物語を全世界が知る日が来るんだと信じたことがあるなら、SFや少女漫画やロック、小さな池で育ち大きな海へと泳ぎだした文化たちと過ごした日々を今も深く記憶しているなら、あなたは劇場でかつての自分たちのような、新しい世代の文化が羽化する瞬間を見ることができるだろう。そういう映画が劇場で公開されている時間はとても短い。『ビューティフル・ドリーマー』と『風の谷のナウシカ』が公開された1984年が二度と帰って来ないように。ガールズカルチャーのネットミームを借りるなら、それはとても「尊い」瞬間なのだ。

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