“ちょっとだけ普通じゃない”高橋一生が教える生き方 『僕らは奇跡でできている』が放つメッセージ
よって、その序盤、物語の進展は、どこか掴みどころがなく、その先行きもまったく不明だった。歯医者で出会った少年と意気投合し、「ウサギとカメ」の新解釈を考える第1話、学生たちを連れて、森にフィールドワークに出掛ける第2話、サル山のボス交代の様子を眺めに、少年と動物園に行く第3話、突然授業を休講して、群馬でコンニャク芋を観察する第4話、育実が企画した子ども向けの歯磨きイベントに参加する第5話……いずれも、生き物の“フシギ”にまつわる話ではあるけれど、そういった生き物に関する“蘊蓄”を披露することが、このドラマの目的なのだろうか? そう思った視聴者は、少なくなかったのではないだろうか。もしくは、視聴を止めてしまった人々も。結論から言うと、それは実に惜しいことをした。なぜなら、このドラマのテーマは、そこではなかったのだから。一輝の言葉を借りるならば、「奥に隠れた見えない物をしっかり見れば、その素晴らしさを感じることができるんです」(第4話)。まさに、その通りだった。
もちろん、思い立ったらすぐに行動に移し、思ったことを思ったままにしか口にできない一輝の言動は、周囲の人々に波風を……ときには衝突を生み出してゆく。「常識では考えられない」、「普通じゃない」、「どうかしている」。そう言われるたびに、一輝は口を開けて呆然としたり、少しションボリしたり、ときには大いに悩んだりはするものの、そこから導かれた疑問をそのまま口にして、さらに相手を戸惑わせたりもするのだった。けれども、そんな“変わっている”けど“変わらない”一輝の言動は、周囲の人々の心を徐々にではあるけど、ジワジワと変化させてゆくのだった。
たとえば、なぜか小道を渡って向こう側に行こうとしないリスたちのために橋を架けようとする一輝に対して、一緒に森に同行した育実は、こんなふうに尋ねる。「要は、リスを渡らせたいんですよね?」。それに対して、一輝はこう答えるのだった。渡らせたいのではなく、「他に行ける方法があるよってことを見せるんです」と。そう、その道を選ぶかどうかは、リスたち次第なのだ。翻って我々は、あらかじめ決められた物事に対して何の疑問を持つことなく、それどころか、それをいつの間にか他者にも強要しているのではないか? それを選択するかどうかは、相手の自由であるにもかかわらず。無論、一輝がそこまで意図していたかどうかは定かでない。恐らく、していないだろう。彼は何かを示唆するような発言はせず、思ったままを率直に言葉にするだけなのだから。そんな一輝の言葉に何かを読み取ってしまうのは、その周囲にいる人々のほうであり……それを観ている我々視聴者のほうなのだ。