二分された“東京”と“地方”は何を意味する? 『ここは退屈迎えに来て』が描く人々の心の事情
「何者かになりたい」と東京に出たものの、地元に帰ってきてタウン誌にお店情報などの記事を書いている27歳の「私(橋本愛)」や、仕事仲間のカメラマン・須賀(村上淳)は地方に生きる、いわゆる東京からの「出戻り組」である。「私」たちはその日の仕事を終えると、須賀の運転する車で、高校時代の親友サツキ(柳ゆり菜)とともに、当時学校のスター的な存在だった、憧れの「椎名」という同窓生に久々に会うため、彼の職場である自動車学校へと向かう。
その車中で、ずっと地元に住んでいるサツキは出戻った2人に対し、「東京に行けていいな」と繰り返す。「私」も須賀も、大きな成功はおさめられずに帰ってきているのでバツが悪そうにするが、サツキはそれでも「戻ってきたとしても、東京にいたことで人生に深みが出るよね」と言う。そうまとめられてしまうくらい、彼女たちは地元ではありふれた典型的存在として認識されているし、何か東京には魔法のような力があると、漠然と考えられている向きがある。
出戻った「私」は、東京に暮らし続けることが物理的にできなかったはずではないだろう。彼女はなぜ地元へ帰ってきて、サツキは憧れの東京に行かなかったのだろうか。その謎は高校時代を描く過去の場面によって、少しずつ分かってくる。
「私」やサツキの憧れであり、同じ学校出身のもう一人の「あたし」(門脇麦)と一時期つき合っていた「椎名(成田凌)」は、人当たりが好くカリスマ性があり、クラスの誰もがなんとなく目で追ってしまうような魅力がある人物で、いわゆる「スクールカースト」と呼ばれる序列の頂点にいる。それでいて、新保(渡辺大知)のように、文庫本を持ち歩き読書するような、学生生活のなかで序列が下だと思われている学生にも気さくに声をかける。
舞台となる各年の地元で生きる登場人物たちは、学校を卒業した後も、そんな椎名という存在に、大なり小なり精神的に縛られているようである。ただ椎名本人は、高校時代からほとんど虚無といえるまでに内面的な空疎さを抱えている。「ずっと高校生でいたい」と話していたように、彼は彼で、実体の無い王子さまを演じていて、そこでしか生きる意味を感じられなかったのかもしれない。高校という舞台が失われると、彼は“みんなの心の中の高校時代の王子さま”であり続けるものの、それは卒業以降の彼とは、すでに遠く隔たったものでしかない。
それが短い期間だからこそ、高校時代の思い出は光り輝いて感じられる。高校時代に椎名という存在がいて、その輪のなかで学生たちは、一時だけ最高の経験をした。この思い出が強い磁力となって、彼女たちを意識的であれ無意識的であれ、「東京」に代わる存在として地元へと引き寄せていたのである。その意味において、もはや「椎名」は個人ではなく、ある種の役割であるといえよう。その存在は、「憧れ」だったり、「やり残したこと」だったり、「思い出」だったり、「棄て難いもの」を総合した象徴として、本作の地方在住者たちをその場に縛り付けている。本作が描いていたのは、そんな人々の心の事情である。
それを最も強く集約し、そして対照的に描いているのが、高校生たちがプールで大はしゃぎするシーンであり、本作の劇伴も務めるロックバンド、フジファブリックの「茜色の夕日」(2001年)を、卒業後のそれぞれの登場人物が独りで歌うシーンである。この廣木隆一監督による一種のスペクタクル演出は、作品の性質からすると少し雄弁過ぎるように感じられる。その感覚の差違には、原作者と隔たった年齢の差というものもあるだろう。しかし、そのことが作品を逆に良い方に向かわせていると感じさせる部分もある。