新たな発見を与えてくれる役割に 『ムタフカズ』が照らし出すアニメーション業界の現状

 やはり面白いのは、コラボレーションの妙だ。おそらく多くの観客が感じる通り、本作は紛れもなく日本のアニメーションの文法で描かれた、日本の作品である。例えば、銃の重みや発射時の反動など、重力の存在を強調し、身体性に優れる職人的なアクション表現は、いちいち観客の快楽を呼び覚ます。アニメーションはどんな動きでも描けてしまうはずだが、あえて重力という制約を課すことで、逆に動きに魅力を加えているのだ。アニメーションの動きに、このような倒錯したアイロニーを持ち込んでいるのは、一部の日本アニメーションにおける特徴である。本作が楽しいのは、それにも関わらず、日本のスタッフだけでは出てこないような発想も、随所に見られるところなのだ。

 例えば、主人公の少年アンジェリーノは真っ黒な影のような見た目に、目だけが張り付けてあるような、『名探偵コナン』に出てくる「謎の犯人」のようだし、その親友ヴィンスもまた、頭がガイコツで、常時頭に炎がゆらめいているというホラーなキャラクターなのだ。それでいて、彼らはとくに目立つこともなく、周囲に馴染んで暮らしているのである。

 日本の漫画でも、古くは田河水泡の『のらくろ』のように、『フィリックス・ザ・キャット』など海外のアニメーションやカートゥーンの強い影響下にあった時代は、このような擬人化したキャラクターが説明もなく混在する世界観というのはよく見られていたが、よりリアルな演出や設定が用いられることが多い「ストーリー漫画」が主流になってからは、そのような曖昧な世界観は、日本では次第に異端的なものになっていった。

 ディズニー作品などに大きな影響を受けたという、漫画家・鳥山明もまたそのようなカートゥーン的世界観を受け継ぐ漫画家の一人だが、それでも『DRAGON BALL』の後期では、シリアス化する内容にともなって、人種などの設定に理屈が追加されるなど、日本的文法に沿うものになっていったといえる。

 その状況は、子供向けの『アンパンマン』など、少なくない例外があるとはいえ、漫画文化と密接に関わるアニメーションも同様で、予算がかかる劇場長編アニメーションとなればなおさらである。ギヨーム・ルナールによる原作コミックにある、細密な画風とリアルなアクション表現が、落書きから派生したようなキャラクターに託されているという世界を、いまあらためてアニメーション化してみると、ちょっとギョッとしてまうのは、そういうところなのだ。

 しかし、もともと漫画やアニメーションというのは、むしろそういうナンセンスな世界を描くことこそが本道であったはずだ。全身が影のようでも、頭が燃えたガイコツでも、歯にヒップホップ風のアクセサリー(グリル)を装着した子犬が、何の説明もなくメインキャラクターになっていてもいいじゃないかという気分にさせてくれる。そしてそれは、日本のアニメーションが、(例外はあるものの)大きな流れとして失いがちになっていたセンスなのではないだろうか。

 また、この主要な3人組は、ギヨーム・ルナールが名乗る別名「RUN」と、本作の登場人物たちが生きる街のネーミング「D.M.C.(ダーク・ミート・シティ)」と合わさることで、80年代から活躍していたレジェンド的なラップ・グループ、“Run-D.M.C”の関係性を想起させるように、本作ではストリート・カルチャーも重要な要素として扱われている。

 このような多様な要素が、どこから選ばれているのかというと、それは原作者でもあるギヨーム・ルナール本人の趣味趣向という他ない。「D.M.C.(ダーク・ミート・シティ)」は、危険なディストピアであると同時に、ルナールが体感し受け入れてきたカルチャーを合体させ、具現化したユートピアなのだ。この世界観におそらく直接的に影響を及ぼしたのは、大友克洋による漫画、アニメーション映画『AKIRA』ではないだろうか。そうなると、日本のスタジオがこれを映像化することに、より意味が出てくる。ちなみに西見監督は、アニメ版『AKIRA』の作画スタッフだった。

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