アニメーションはふたたび時代を体現するジャンルへ 今夏アニメの“子ども”と“動物”の意味を考察

現代アニメの変化を象徴する3作

 では、今夏に公開された新作アニメ映画には、なぜ、揃いも揃ってこうしたアクタント的なイメージがいたるところにうごめいているのだろうか。

 おそらくその答えのひとつは、今日におけるアニメーション表現全体の変化に関わっている。たとえば、ほぼ1年前、この「リアルサウンド映画部」に寄稿したアニメーション映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(2017年)のレビュー(参考:渡邉大輔の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』評:『君の名は。』との関係と「リメイク映画」としての側面を考察)でも記したように、2010年代、とりわけ『君の名は。』(2016年)や『この世界の片隅に』(2016年)以降の現代アニメーションは、制作プロセス全体のデジタル化に伴って、その体制や表現方法にも大きな変化を迎えているといわれる。よく知られるところでは、映像全般がデジタル化したことによって、これまでのフィルムの時代に強固に存在していた「実写」と「アニメーション」という区別が本質的に意味を持たなくなり、いわば「すべての映画はアニメになる」(押井守)とでもいうような状況が訪れていること。また、それゆえに映像文化全体のなかで、それまで映画のサブジャンルに見られていたアニメーションのプレゼンスが上がり、また、アニメーション自体のアイデンティティを問い直すような、「メタアニメーション」的な作品が目立ちつつあること……などなど。

 ともあれ、その変化の諸相を的確に論じた重要な仕事として、『個人的なハーモニー』や『21世紀のアニメーションがわかる本』などの土居伸彰の著書がある。これらの一連のアニメ論において土居は、デジタル化以降の現代アニメーションの注目すべき動向や本質を丹念に論じている。さて、この稿の論旨から重要な彼の指摘は、以下の3点だ。まず第一に、デジタル化による制作手法の相互流動化によって、それまで別々の文脈に属すと見なされていた、商業アニメとインディペンデントアニメ(アート系アニメ)、長編と短編、集団制作と個人制作、国内と国外……といった区別が急速になくなりつつある(土居の挙げている例ではないが、たとえば『ポプテピピック』)。第二に、それらの作品群では、主人公や作者個人のきわめて「個人的」な世界を好んで描くようになっている(まさに『この世界の片隅に』)。そして第三に、さきほども述べた実写とアニメの融合現象によって、かつてアニメーション映像の本質として注目された「原形質(plasmaticness)」(モノや身体の形状の自由な変形可能性)があらためて注目されていることである。

『未来のミライ』(c)2018 スタジオ地図

 さて、ここで結論をいえば、今回の『未来のミライ』『ペンギン・ハイウェイ』『ちいさな英雄』の3本の映画を観て、ぼくが実感したのは、これら土居が指摘していたような、現代アニメーションの変化がやはり如実に認められるということだった。第一の点についていえば、『未来のミライ』や『ちいさな英雄』には、通常の商業アニメの絵柄からは異質なインディペンデントアニメを思わせる作画が凝らされている点が挙げられるだろう。『未来のミライ』の終盤、くんちゃんが迷いこむ東京駅の遺失物受付ロボットの平面的でグラフィカルなイメージ、あるいはスタジオジブリで短編も手掛けた百瀬や山下の作品の驚異的な作画表現は、そうした印象を強めるものだ。もとより、コミックス・ウェーブ・フィルムの新作『詩季織々』(2018年)同様、「短編オムニバス」という形式で作られた『ちいさな英雄』というプロジェクト自体、きわめて「デジタルコンテンツ的」だといえる。

『未来のミライ』(c)2018 スタジオ地図

 また第二の点では、さしあたり『未来のミライ』がそうだろう。いうまでもなく、本作は4歳のくんちゃんのきわめて「個人的」な内面世界の物語だ。それはある程度は『ペンギン・ハイウェイ』にも該当するし、しかもこの両作に共通する、家族、兄妹、あるいはアオヤマ君とお姉さんの「対幻想」(吉本隆明)的な世界は、こうしたミニマムな心象風景のリアリティをより強調することにもなる(これらの作品における子どもの機能のひとつはそこにもある)。その意味で、『未来のミライ』は、むしろ『ウェイキングライフ』(2001年)や『コングレス未来学会議』(2013年)、そして湯浅政明の『マインド・ゲーム』(2004年)のようなラディカルなデジタルアニメの問題作群と比較されるべき映画なのであり、今回の『未来のミライ』の「失敗」とポテンシャルも、すべてはそこに起因している、というのがぼくの見立てだ。

『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』(『カニーニとカニーノ』)(c)2018 STUDIO PONOC

 最後に第三の原形質性の問題。もともと原形質とは、「映画芸術の父」とも呼ばれる旧ソ連の偉大な映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが、ディズニーアニメに描かれる海の泡から人魚の赤ちゃんにメタモルフォーゼしたりタコがゾウのかたちを模倣したりする表現に見いだしたものだが、ここで明らかにすれば、この稿の最初に述べてきた人間と動物、動物とモノが結びついていくアクタント的なイメージとは、要はこの「原形質的なもの」のことである。すなわち、『未来のミライ』のゆっこ/謎の男や、『ペンギン・ハイウェイ』のペンギン、『カニーニとカニーノ』のカニの兄弟とは、アニメーションの本質である原形質性を前景化させたメタアニメ的なキャラクターとして造形されているのだ。さらに、こうした原形質的なイメージは、『サムライエッグ』の中で出てくる、ママ(尾野真千子)が踊るダンスの身体イメージにもはっきりと表れている。ここで、演出の百瀬は踊るママの身体をグニュグニュとした可塑的な表現で描くが、そもそも原形質性を提唱したエイゼンシュテインは、その具体例を、「脊椎のないゴムのようにしなやかな生き物とな」る「スネーク・ダンサー」たちにも見ていたからだ(「ディズニー(抄訳)」、今井隆介訳、『表象』第7号、160ページ)。また、この原形質概念とも共通するところの多い「映画造形(ciné plastique)」という概念を提唱したフランスの美術史学者エリー・フォールも同じくダンスする身体に注目しており、『サムライエッグ』のママのダンスは、そうした無数のアニメーション的記憶を担うものでもあるのである。

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