小野寺系の『ちいさな英雄』評:監督たちの才能とスタジオポノックの未来を読む
山下明彦監督『透明人間』(14分)
今回のポノック短編劇場のなかでは、明らかに最も優れた作品である。スケッチ風の強弱のついた輪郭線は、線描の美しさが活かされることで、手描きアニメーションとしての魅力が発揮され、全体的に抑えた色調がセンスの良さを感じさせる。そして数は多くないものの、ちゃんと笑えるようなシーンが用意されているのが嬉しい。いままでのスタジオポノック作品において、ユーモアがユーモアとして機能したのは、これが最初なのではないだろうか。3作品のなかで唯一、海外の映画賞に出品しても存在感を発揮できる短編作品だと感じられる。
山下明彦監督は、宮崎駿監督の作品に多く参加しているように、ここでは天才アニメーターとしての宮崎駿を継承しようとするようなアニメーション表現がいくつも見られる。浮揚感、飛翔感、スピード感、重量感など、観る者の感覚にうったえかける表現が主軸となるので、観客は引き込まれるだろう。また、主人公の透明人間としての特徴が、それらのシーン随所に活かされていて、しっかりと“面白さ”が発生している。
各シーンの描写を見ていると、ここでの「透明人間」とは、“誰からも認知されないほど存在感のない人物”であるようだ。見た目や性格に個性がない。優れた能力がない。特殊な技能がない。明確な目的を持っていない。だから他人に見向きもされない。現代に生きる多くの個人にとって、それは深刻な問題である。本作の透明人間が、消火栓のように重いものを持っていなければ、風に吹き飛ばされてしまうほど重みがないという描写は、厳しい現実のなかで、かろうじて社会性を保とうと奮闘する、大勢の人間の姿である。
同時に、これはおそらく監督自身が投影された物語でもあるだろう。本作に登場する、田中泯が演じる老紳士は宮崎駿監督にそっくりに見える。老紳士は唯一、透明人間の存在を認めてくれる人物だ。自分はアニメーション以外の世界では存在感を発揮できないが、天才アニメーターであり巨匠監督でもある宮崎駿に評価されたことで、自分の価値を発見するきっかけが与えられた、ということをここでは表現しているのではないだろうか。
そして見知らぬ子どものために身を投げ出し、精一杯、子どもを喜ばせようとする透明人間の姿が表すのは、観客である子どもが喜んでくれることで、自分自身の存在意義を感じられるようになったという意味だと思える。人を救うことで自分も救われるというテーマには普遍性がある。とはいえ、子どもが喜んでくれることに存在意義を感じるようになったという内容にも関わらず、本作そのものは暗く陰鬱な雰囲気が支配していて、子どもが喜びそうな要素が希薄なのは、なぜなのだろうか。
本作と同時期に公開されたアニメ映画に、スタジオコロリドの『ペンギン・ハイウェイ』がある。その石田祐康監督が大学時代に自主制作した作品『フミコの告白』(2009年)を、ここで比較対象として持ち出したい。
これは、意中の男子生徒にフラれた女学生がショックを受けて坂道を駆け下りていくと、ものすごい加速がついてしまい、止められなくなるというだけの内容である。この作品の作画技術は、『透明人間』のそれには遠く及ばないかもしれない。だが客観的に判断して、こちらを上映した方が観客を沸かせることができるだろうし、話題になっていたと思われる。なぜなら、そこには一点突破の“過剰さ”が存在するからだ。
いま自分やスタッフができる技術、予算や時間などを勘案した上で、「こうすれば観客を楽しませる作品になる」という一種の勘を働かせ、できる限りの最大限の効果を導き出すために注力する部分を決める。完全に狙ったものなのかどうかは分からないが、『フミコの告白』はそれを達成できている作品として、一つの手本になるように思える。もし、スタジオポノックが『フミコの告白』のような過剰さを持つアニメーションを本気になって制作すれば、もっともっとすごいものを作ることができるはずである。