宮台真司の月刊映画時評 第9回(前編)
宮台真司の『万引き家族』評:「法の奴隷」「言葉の自動機械」となった人間達が社会を滅ぼすことへの激しい怒り
存在論的転回──社会学の沈下と人類学の隆盛
「実在論」と訳されるrealismは「どうすれば生きられるか(という観点からする構え)」という意味です。社会学者ソルニット『災害ユートピア』(2009)が示したように、システムによって間接化された私たちは、システムの呼出ボタンを押せば生きられますが、災害でシステムが動かなくなるとrealismが分からず、「生存戦略と仲間意識」を欠くので死にます。
群馬大学の片田敏孝氏が津波の多い三陸地方に伝わる『津波てんでんこ』を震災前から唱導しておられました。津波が来たら仲間を置いて『てんでんばらばら』に逃げろ、助けようとして戻ると共倒れになるぞ、と。これがontologyを踏まえたrealismというものです。ことほどさようにrealismはontologyを前提(必要条件)としていることが分かります。
他方、「死を覚悟して家族を助けに行け」というのは、ontologyを踏まえたrealismではありません。別の言い方をすれば、ontologyを敢えて無視したanti-realismがあり得るのです。「不可能だと知りながら」前に進む営み。これはrealismではなくesthetism(美学)です。敢えてするロマン(架空ビジョン)を追求するロマン主義。それはそれでいいでしょう。
realismが前提とするontologyは、約束事ではありません。まして主観でもありません。蛙には蛙の、鯨には鯨の、人には人のontologyがありますが、そこに優劣はありません(多自然主義multi-naturalism)。ontologyを無視した営みは、人や社会を生存できなくします。人の生き方も社会の制度も「どうとでもあり得る」訳がなく、realismが必要です。
なのに(ソルニットを例外として)社会学者は、社会は約束事だから様々な文化があるのだと言い立ててきました。リベラルな議論が特にそう。「構築主義」と呼ばれます。「社会はどうとでもあり得るのに…」という訳です。でも、どうとでもあり得るはずがありません。ontologyを無視した制度に依拠する社会は滅びるのです。現に滅びようとしています。
最近の哲学(カンタン・メイヤスーら)は、構築主義的発想を「相関主義」と呼び、批判します。最近の人類学(ヴィヴェイロス・デ・カストロら)も、構築主義的発想を「非本質主義」と呼び、批判します。この動きを「存在論的転回」と呼びます。ontologyを回復し、システムによる間接化で呆けたrealismを叩き直せ!──そうした共通の規範的志向があります。
文明的な社会は滅びに瀕しています。民主政は、気分が晴れりゃ何でもいいという類の「中身に意味のない表出 explosion」を、あたかも中身に意味がありそうな「尤もらしい表現 expression」へと変換する装置に過ぎません。ontology&realismから私たちを遠く隔てる機能を果たしているのです。映画批評集『正義から享楽へ』(2016)で示した通りです。
家族と非家族の差異に拘泥する「言葉の自動機械」
『万引き家族』は[法外=直接性/法内=間接性]の図式を用いて、そこに[本物/偽物]という図式を重ねます。realismから見て「法外=直接性」は本物、「法内=間接性」は偽物。システムによって間接化された「法内」の存在は、ontologyが摩滅した偽物です。映画では「法の奴隷」と「言葉の自動機械」という偽物が溢れるこの社会への怒りが示されます。
そこも『誰も知らない』とは逆向きである事実に気づかねばなりません。『誰も知らない』では「法外=子供の領分」がunrealだから滅びるのですが、『万引き家族』でunrealなのはむしろ「法内」なのです。それを強烈に感じさせるのが、男女2人の若い警官から「母親」に対する説諭──子供の将来はどうなるの? 子供のことを考えたの?──の場面でした。
警官役の池脇千鶴と高良健吾が真剣な演技を見せますが、真剣であるほど嘘臭く見えるように周到に演出されています。これは、「言葉の自動機械」つまりクズであるパヨク(左翼の蔑称)への、痛烈な批判に当たります。それなのに、本作をパヨク擁護の作品だと批判するウヨブタがうようよと湧いています。パヨク以上に「言葉の自動機械」つまりクズです。
と言いたいところですが、本作に正確に即するなら、パヨクとウヨブタが「法の奴隷」「言葉の自動機械」として等価に批判されています。私の言い方では、「左か右かじゃなく、マトモ(本物)かクズか」となります。こうした本作の「法の奴隷」批判&「言葉の自動機械」批判──クズ批判──のスタンスは、今日の社会が抱える問題を的確に射当てているでしょう。
なぜなら、グローバル化による「中間層の分解」とインターネット化による「見たいものだけを見る営み」がもたらした、共同体の崩壊つまり「仲間」の空洞化によって、損得勘定を超えた内発性(良心)が枯渇しているからです。思えば、左翼か右翼か、宗教か世俗かを問わず、不安を背景とした神経症的「法の奴隷」「言葉の自動機械」が社会を覆い尽くしています。
それを前提に、政治集団・官僚集団・宗教集団の別なく、「座席を失うのではないか」という不安をベースにした神経症的な「損得による忖度」が蔓延します。モリカケ官僚もオウム教団幹部も日大アメフト部員も同じこと。「内容に意味がありそう」に見えて実際は「不安の穴埋めに役立てば何でもいい」というだけの、「似非コミュニケーション」が溢れています。
その意味で、「似非コミュニケーション」の蔓延は、パヨクとウヨブタだけではありません。そうしたunrealismの典型が、[家族/非家族]を明確に分ける私たちの作法だと言えます。先日の目黒で起きた親による子供の虐待死事件で、隣人たちが子供を助けてあげられなかった理由も、この「当たり前の作法」──クズどもの作法──だったのです。
これに比べると、万引き家族たちは家族と非家族をなだらかにつなぎます。明瞭な境目はありません。血縁がなくてもいいのです。困っていたら家族に加えて助け合います。映画は、[家族/非家族]を截然と分ける私たちの「当たり前の作法」が、生き残りに役立たない「言葉の自動機械」のワザ、「法の奴隷」のワザだと、私たちに突きつけているのです。