ディーン・フジオカは復讐の先に何を見るのか? 『モンテ・クリスト伯』見事な光の演出

「お前が幸せなら、怒りで光の導く方へ進め」

 第2話でファリア真海(田中泯)は、失意の暖(ディーン・フジオカ)にそう投げかけた。その言葉通りに、暖は復讐心のために生きる気力を取り戻し、まばゆい光で白く輝く海に「魚のエサ」として投げ込まれ、一度死に、“モンテ・クリスト・真海”として蘇った。彼は怒りの炎だけを心に宿して、光に向かって、深い穴の底から浮かび上がったのである。

 ドラマ『モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐―』(フジテレビ系)が俄然面白い。もちろん、「なぜここまでくるまですみれ以外の暖の事件の当事者たちは、どうみても同一人物である真海の正体に気づかなかったのか」というツッコミはあうだろうが、『昼顔』(フジテレビ系)、『刑事ゆがみ』(フジテレビ系)の西谷弘はじめ演出部の細やかで巧みな演出、『僕のヤバイ妻』(カンテレ・フジテレビ系)の黒岩勉の脚本の大胆さ、そしてなにより隅々まで絶妙に配役された俳優たちの熱演によって、かなり見応えのあるドラマに仕上がっている。このドラマは、フィクションの光に照らされ、えぐり出されていく人々の本性と、そこに隠された真っ直ぐな愛と固執を眺めるためのドラマなのだ。

 「今日の海はやけに透き通っていて、何か見透かされてしまうような気になる」という第2話での真海の台詞は、「真海」という名に変えた彼自身の性質を暗示しているようだ。復讐される対象である登場人物たちは、全て真海の手の平の上で転がされていると言っていいが、彼は全てのきっかけを作っているにすぎない。全てが真海の意のままに動くわけではない。稲森いずみ演じる神楽留美の母親としての行動が真海の予想を大きく上回ったように、彼自身が最愛のすみれ(山本美月)の行動に心を動かされているように。

 心の優しい暖は、真海という全てを見通す、冷徹な「神」へと生まれ変わった。彼はただ、高いところからスポイトで一滴の雫をたらし、その化学反応を見守っている。そこで繰り広げられるのは、太陽のような青年・暖の影で静かに鬱屈した感情を燻らせていた男たちと、彼らが抱え込んでしまった悪魔とも言える山口紗弥加、稲森いずみ、桜井ユキという美しい女たちによる、醜くも美しいサバイバル・ゲームなのである。

 このドラマで実に見事なのが光の演出だ。例えば、山口演じる入間瑛理奈の聖域であるキッチンは、常に眩しいほどの昼の光に満ち、彼女の毒入りの瓶は常に光に照らされ禍々しく煌いている。彼女は真昼の悪魔だ。


 一方、もう1人の禍々しい妻、稲森演じる神楽留美である。彼女を照らすのは月だ。留美が安堂(葉山奨之)を生き別れた息子だと知り、親子が互いにかばいあったことで寺角類(渋川清彦)を刺してしまう場面では、月の光が過剰なほどに、彼らのいる屋敷を照らしていた。それは、一度は闇に葬られた真実の愛、親子の絆を、月が明示しているかのようだった。その後、借金の返済を終え、怯える息子に「大丈夫」と微笑む留美の頭上には、昼間の月がうっすらと浮かんでいる。

 復讐に燃える真海と愛梨(桜井ユキ)は、「光の導くほうへ」と言われながらも、彼らの傍には光がない。暗い部屋に潜む彼らを照らすのは、すみれの娘がプレゼントした星の絵(真海にとっての唯一の正しい道筋を示す「光」だったかもしれない)を燃やす炎、真海が愛梨の煙草に点火するためのマッチの炎しかないのだ。


 そして、幸男(大倉忠義)への復讐を実行した後、彼らの頭上にある太陽は、雲に隠されて霞んでいる。それは、復讐の成立の裏で泣いているだろう最愛の人のことを思ったのか、自分と同じ立場である幸男の娘のことを思ったのか。それぞれの心が晴れ渡ることはないからだろう。

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