荻野洋一の『LOGAN/ローガン』評:スーパーヒーローが死滅した近未来のディストピア

 ミュージカル映画のヒット作『レ・ミゼラブル』(2012)における主人公ジャン・バルジャン役の熱演を見た時、ヒュー・ジャックマンのローガン=ウルヴァリン役はもはやそれほど長くはないだろうということが、火を見るよりも明らかだったように思う。このオーストラリア出身のタフガイはもともと、『X-MEN』(2000)のローガン=ウルヴァリン役を得ることでスターダムに登りつめた。しかし、来年には50歳を迎えようとしている彼のウルヴァリン卒業は遠くないことであった。

 ローガン=ウルヴァリン以外のX-MENキャラクターたちは、すでにおおむね世代交代を果たしている。「チャールズ・エグゼビア=プロフェッサーX」はパトリック・スチュワートからジェームズ・マカヴォイに交代し、「マグニートー」はイアン・マッケランからマイケル・ファスベンダーに、「ミスティーク」はレベッカ・ローミンからジェニファー・ローレンスに、「ストーム」はハル・ベリーからアレクサンドラ・シップにそれぞれ世代交代し、若年化が図られてきている。今回、ヒュー・ジャックマン卒業作品が用意されるとなれば、死の影ただようシリアスな作品となるのは必定である。少なくとも前作『ウルヴァリン:SAMURAI』のように緊張感を欠く結果で終わるわけにはいくまい。

 日本ロケ作品『ウルヴァリン:SAMURAI』(2013)は、監督のジェームズ・マンゴールドにとっても不満の残るものだったようである。ましてや、その翌年の『X-MEN:フューチャー&パスト』(2014)は、シリーズ中最も複雑に時制を往来するアクロバティックなシナリオを、ブライアン・シンガー+マシュー・ヴォーン組がみごとな映画にしていただけに、マンゴールドとしては忸怩たるものがあったに違いない。だから名誉挽回の機会となった今回は、相当に気合が入っていただろう。当サイトのインタビューでも次のように述べている。

 「『ウルヴァリン:SAMURAI』はすでに完成した脚本を少し脚色して映画化したところが大きかった。『LOGAN/ローガン』に関しては、キャラクター自体は既存のものだけど、物語は自分が個人的に作り上げたものなんだ。それは大きな違いだったね」(参考:「“怒りを抱えた国”を見せる作品だ」『LOGAN/ローガン』監督インタビュー

 パトリック・スチュワートとイアン・マッケランのふたりは、X-MENにおいてライバル陣営のリーダーを演じつづけてきたが、現在はもはや「X-MEN以後」の段階を生きているように思える。今年9月に上映予定の〈ナショナル・シアター・ライヴ〉、『誰もいない国』では、ハロルド・ピンターの戯曲においてパブで果てしなく議論するふたりの小説家役で共演している。このキャスティングはあきらかにプロフェッサーX VS マグニートーの図式を現代イギリス演劇に投じることのパロディアスな意味合いが包含されているにちがいない。

 今回の『LOGAN/ローガン』は、ミュータントがあらかた死滅した2029年という時制を扱っている。ウルヴァリンもプロフェッサーXもすっかり老いて衰えてしまった。片足は墓穴にあり。彼らに与えられた最後の試練、それは新世代のミュータントである少女ローラ(ダフネ・キーン)を助けることだ。メキシコの隔離施設を脱走した少女を、ノースダコタ州の「エデン」へと送り届ける。新旧3人のミュータントのアメリカ縦断の旅は、西部劇のビッグ・トレイルじみたものとなる。

 「この作品では『シェーン』はもちろん、『アウトロー』(76)、『ガントレット』(77)、『許されざる者』(92)といったクリント・イーストウッド監督の作品をはじめ、『11人のカウボーイ』(72/マーク・ライデル監督)、『子連れ狼』(72/三隅研次)、『ペーパー・ムーン』(73/ピーター・ボグダノヴィッチ)、『がんばれ!ベアーズ』(76/マイケル・リッチー)、『レスラー』(08/ダーレン・アロノフスキー)といった作品の影響を受けているよ。でも、西部劇はファンタジーなんだよね」(前掲インタビューより)

 彼らが宿泊するオクラホマ・シティのカジノホテルで西部劇『シェーン』(1953)のテレビ放送が流れていたように、ウルヴァリンはシェーンの再来として位置づけられる。企業主の横暴に困る村人を救う孤高のガンマンである。しかしそれ以上に重要な参照作品はクリント・イーストウッド監督・主演の『ペイルライダー』(1985)だろう。ペイルライダー(蒼白い馬に乗った騎士)は不死身である。なぜなら、敵の保安官がくしくも言ったように、「彼はすでに死んでいるはず」だからである。

 ウルヴァリンは、南北戦争から第一次世界大戦、第二次世界大戦、長崎への原爆投下を経験してもなお生き長らえた。しかしそれは、不老不死という名の生き地獄であった。今回の『LOGAN/ローガン』のウルヴァリンは、深い傷を負って、運転中に昏睡する。もはや息を引き取っているようにさえ見える。あたかも運転中に昇天する『アメリカの友人』(1977 監督/ヴィム・ヴェンダース)ラストのブルーノ・ガンツのように。少女ローラは言う。「あなたは死にかかっている。そして死にたがっている」と。心なしか、ウルヴァリンがブルーノ・ガンツばかりでなく、クリント・イーストウッドそっくりにも見える。そしてそれは偶然ではないだろう。プロフェッサーX、ウルヴァリン、少女ローラの3人の旅は、あたかも擬似的な家族の肖像である。〈祖父──父──孫娘〉の鼎立によって、リムジンという名の駅馬車は、家族旅行の体をなす。イーストウッドの愛すべき小品『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)の擬似的な父子旅行を思い出す人も多いことだろう。

 思い返せば『X-MEN』はシリーズ開始以来つねに、ミュータントたちの孤独を慰撫しようと、擬似的な家族を仮構してきた。とくにカミナリ親父のような父性への拘泥が強い。その最たる例が、ニューヨーク郊外にプロフェッサーXが開校した「恵まれし子らの学園」である。この学園=楽園でミュータントたちは、超能力の正しい制御法を学んでいた。『LOGAN/ローガン』ではすでに学園は影も形もなく、プロフェッサーXはメキシコの廃工場で認知症を患っている。しかし、ノースダコタ州の断崖絶壁の上に建つ小屋「エデン」こそ、学園(楽園)再興を予感させるトーチカであり、燈台である。

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