速水健朗の『ワイルド・スピード ICE BREAK』評:シリーズの核心は“バーベキュー”にある

 主人公のドムは、クルマの改造の知識があり、運転がうまく、度胸があり、機転が利いて公平な奴。そして、パーティで誰にも一目置かれ、仲間思いで、もめ事を解決し、悪い奴にだって寛容である。そして彼の精神性が台詞としても示される。「大事なのは、マシン(クルマ)の性能ではない。誰が乗るかだ」と。

 今回のドムたちの敵は、シャーリーズ・セロン演じる"サイファー"である。彼女は、ハッカーというかサイバーテロリストである。サイファーは、電子器機を無効化する大量破壊兵器「電磁パルス砲」の強奪する。随分と大味な設定である。予告編で潜水艦とクルマがレースしているのを観て、大味さについてはだいたい想像は付いていたとはいえ……。

 いや待て、設定が派手で大味になっているからといって、駄作になっているわけではない。今作の敵は、むしろこれまでとは違った新しい敵だ。単に強敵とか、邪悪だとかそういった存在ではなく、イデオロギーとしてドムたちと対極にあるものなのだ。

 サイファーは、街中のネット接続された自動運転機能の付いたクルマをすべて起動させ、遠隔で操作できる。ボスキャラとして登場する潜水艦だって遠隔操作だ。ようやく、ここで「大事なのは、マシン(クルマ)の性能ではない。誰が乗るかだ」という冒頭でのドミニクの言葉が、今作の敵を示す手がかりだったことがわかるのだ。この自動操縦車とのバトルというアクションシーン。ここは、対潜水艦バトルよりも観るべき、重要なシーンだ。

 アクション自体もそうだが、観るべきものは戦いの構図。つまり、

運転車(ドライバー)VS操縦車(コントローラー)

 なのだ。これは、敵味方の対立というだけではなく、現代の自動車産業がどちらに進むかのかという指針と重なるものでもある。

 対立の構図は、これだけではない。サイファーはドムが何よりも友だちを大事にする性質を逆手にとる。ここで強調されるのは、サイファー自身は、家族や仲間を持たない個人主義者である部分だ。ドムが、運転の腕と度胸で渡り歩いてきたとするなら、サイファーは、冷徹な知能と用心深さで渡り歩いてきたのだろう。つまり、

家族仲間主義者VS個人主義者

 という構図になる。

 きっとサイファーは、バーベキューになんか呼ばれたことはないだろう。だから次の対立軸も加えておこう。

バーベキュー・ピープルVS非バーベキュー・ピープル

 国もにしばられず、誰の支配下にも置かれることを拒むドムは、自由主義者だがファミリーや仲間を大事にする性質を持つ。おそらく、選挙に行ってもヒラリー・クリントンには票を投じないだろう。WASPではないし、都市リベラル層とは折り合いが悪そうだ。トランプは支持する? ちょっとわからない。

 ただ、ドムを政治思想で区分するならコミュニタリアン(共同体主義者)ということになるはずだ。人種、宗教、文化などの違いを超えて一個の独立した個人を目指すリベラリズムに対して、いや人は1人では生きられないんだから、周りの仲間や家族といった共同体の価値をもっと重んじるべきだというのがコミュニタリアニズム。

 ちなみに、彼が属する共同体とは何か。人種でも地域でもない。宗教は大きい。今作で十字架のネックレスが重要な意味を持つが、ドムは信心深い。お祈りを欠かさない。だが彼の属する共同体は、自分とその仲間だ。彼は、仲間をファミリーと呼ぶ。

 そのファミリーの範囲はどこまでか? ドムのバーベキューに呼ばれる奴がファミリーだ。こうした意味において、この映画にとってバーベキューは重要なのだ。何もドムがチャッカマンで炭に火をつけたり、肉奉行として肉をひっくり返して配ったりするわけではない。ファミリーの儀式として執り行われているバーベキューを差配しているのだ。文化人類学が共同体を研究する際に使われる「再配分」という概念があるが、バーベキューはまさにこれだ。

 集められたメンバーたちは分業によってバーベキューに寄与し、成果として"焼けた肉"が分配される。分配の中心には権力が存在し、そこには義務的な支払いと払い戻しなどの交換が生まれる。

 バーベキューとは権力の構図がそのまま浮かび上がる場所なのだ。だからある種の人々(非バーベキュー・ピープル)には苦手という意識が生まれやすいのだろう。冒頭で触れたように僕もその1人。「あー、速水君、まだそれ焼くの早すぎるから」とか言われがちな、バーベキューに向かない非バーベキュー・ピープルである。

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