菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 特別編

菊地成孔の『ラ・ラ・ランド』評 第二弾:米国アカデミー賞の授賞式を受けての追補

この治癒感覚が

 チャゼルの魔術である。本稿で筆者は「こんなもんに胸をキュンキュンさせている奴は、よっぽどの恋愛飢餓で(後略)」と書いたが、これは勿論、恋愛未経験者(処女/童貞性)を指しているのではない。

 生まれてから一度も飯を食ったことがなく、飯というものの存在すら知らぬ者には、おそらく飢餓感はない(そのかわりに気がつく前に死亡するが)。

 あらゆる飢餓感は、喪失の結果だ。恋愛飢餓は、過去に恋愛を貪り、現在は貪れなくなっている者こそが重症化するのである。古いネット的な言い方をすれば、ガチンコの飢えは、かつてリア充だった者の特権であり、最初から獲得していない非リア充の半端な飢えとは比べようもない。

 この、図ったのか図らなかったのか判然としないまま、マーケティングで大勝利を収めた本作の構造は、ここまで書いてきたことと以下のような図式的な関係を結ぶ。

1)恋愛飢餓者は、前述の理由で、何せ恋愛に強く飢えている

2)彼等は飢えすぎて、欲しがるのは三つ星レストランの凝りに凝った、つまりスキルフルな皿よりも、ラーメンや牛丼を欲しがる

3)これは「ファストフード」というより「リアルフード」というべきである

4)共感性の高いリアルな恋愛とは何か?

5)それは、「わけがわからないような経験」に他ならない。市井に溢れる一般人の恋愛が、映画のようであるはずがない。恋愛は狂気だ。一般人と一般人の、狂気のぶつかりあいなのである。非合理的で、非物語的で、非共有的であるに決まっているではないか

6)つまり「よくできた恋愛映画の脚本」というのは、ある意味でアンリアルなのである

7)「アンリアルだが、心理学的な裏打ちに基づいた、因果も観客誘導も起承転結も明確な、脚本上の恋愛描写」というのは、満腹者にはプロのスキルというエンターテインメントの力が及んで、移入させるが、飢餓者にはめんどくさいだけだ

8)本作の「なんだかよくわかんねえなあ、どうなってんだよこの恋。杜撰だろ脚本」というに吝かでない、「恋愛ドラマの部」の作りは、「リアル恋愛」と同格にある。実際の恋愛とは、こんなもんだ

9)「悪くないが、弱い楽曲」もその援軍となる

10)「素敵な俳優による、稚拙さを内包した歌と踊り」も、その援軍となる(ゴスリングのピアノ、は、あんま援軍にならない。上記の「階級」 参照)

11)<無名だがとんでもない実力を持ったブロードウエイのミュージカル俳優が主演の『ラ・ラ・ランド』>が、当たったと思えますか皆の衆?

12)ここに、アイドル音楽(スーパーハイスキルと、努力=アスリート性。日本だけの話ではないよ勿論)によって恋愛飢餓を満たせるタイプと、そこに乗れないタイプとの分離状態が明確となる。

13)現在のエンターテインメント界は、スーパーハイスキルとアスリート性の時代である。不景気だから必然である。つまり偏りだ。

14)この偏りに、チャゼルくんは直感的な癒しを与えた。「ヘタウマのミュージカル」という、コペルニクス的転回によって(実際には、9/11直前まで高い視聴率を誇っていたテレビドラマ『アリー・マイ・ラブ』等の先駆もあるが、これはそれこそ9/11前であり、リーマンショック前であり、つまり比較的安定的な社会の産物なので、コペルニクス的ではない)。「脚本の杜撰」なんか、気がつくもんか。

 事ここに及び、デイミアン・チャゼル監督がモダンジャズへのストーキング的な侮辱を行っているという程度の罪状は、後景に吹き飛んでしまう(実は重要なオブセッションなのだが、とりあえず本稿内では)。彼の正体は、大衆の無意識的な、しかし激しい飢餓感に訴える天才なのである。

 『セッション』では、ハラスメントによる恐怖と屈辱、それへの復讐、という飢餓感への麻薬を売り、本作では、恋愛飢餓に炊き出しの豚汁を、スキル疲れという構造疲労には粗悪な覚せい剤を与えた。

 「そんでいいじゃん。それが時代を撃つクリエイターなんじゃないの? あんた、ジャズ警察を退職すれば、チャゼルの理解者で賛美者だよ。誰よりも」という指摘が入るだろう。その通りである、と言いたいところだが、こればかりは全く違う。

 勿論、パンク映画、ヘタウマ映画があったって良い。しかしエンターテインメント、特に娯楽映画の権威を、いくら大ヒットしているからといって パンクやヘタウマに与えるのは、一瞬の刺激にはなるだろうが、長い目で見れば止めたほうが良い。昔日はクロード・ルルーシュの『男と女』(カンヌでグランプリ。世界中で大ヒット)が「長尺のTVCM」と揶揄され、さらに昔日には『勝手にしやがれ』(ベルリンでグランプリ。映画史が大騒ぎ)が(悪い意味で)パンク扱いされた。それで良いのである。

 そして、合衆国のアカデミー会員たちが『ラ・ラ・ランド』に下した処遇は、ご存知の通りである。

 ひとことで言えば、合衆国の判断は「相当したたかだな」と思いつつも、ほぼ全面的に支持するしかない。

 「ヘタウマとフレンチ・ミュージカルの関係」が本作に与えた影響、チャゼルが移民であるかどうか、なぜ、ヘタウマ階級で、ダンスが最高位に立つのか等々、まだ書き足りないが、とりあえず、ここまでとする。

 最後に強調したいのは、『セッション』に欲情させられた粗悪なワイルドと狂気(苦笑)がお好きな御仁は、あわやデイミアンに裏切られたかと思ったことだろうが、ご安心。ということだ。筆者はパトロールなどという暇なことしないから、どこにそういう者がいるか探し出せる能力はないが、今回の最高の賢者がいるとしたら、チャゼルくんが自己更新もしくは変化した、と考えなかった人々である。デイミアンの、餓えた民への麻薬投与は続くだろう。麻薬は線状の物語(日常)を絶つ道具であり、キメた瞬間のドランキング効果と「すげえ経験をした」と勘違いさせる魔法によって、民を大いに依存させ、心身をボロボロにさせる。悪質なドラッグ然とした顔つきの『セッション』と、心に優しいお薬みたいな顔つきの『ラ・ラ・ランド』と、どちらが悪質かについては、読者の判断を仰ぐ。

(文=菊地成孔)

■公開情報
『ラ・ラ・ランド』
TOHOシネマズ みゆき座ほか全国公開中
監督・脚本:デイミアン・チャゼル
出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、J・K・シモンズ
提供:ポニーキャニオン/ギャガ
配給:ギャガ/ポニーキャニオン
(c)2017 Summit Entertainment, LLC. All Rights Reserved.
Photo credit: EW0001: Sebastian (Ryan Gosling) and Mia (Emma Stone) in LA LA LAND.Photo courtesy of Lionsgate.
公式サイト:http://gaga.ne.jp/lalaland/

関連記事