東出昌大は規格外の恐るべき俳優だーー天才棋士・羽生善治役の不可解な痛快さ
『デスノート Light up the NEW world』でもアクロバティックな設定の主人公を力演し、唯一無二の個性を発揮した東出昌大。現在は主に主演を張ることが多い彼だが、長身で文字通り頭一つ抜けた体躯を誇る彼は、脇役でこそ輝く側面もあるように思う。
デビュー作『桐島、部活やめるってよ』のクレジットは、神木隆之介、橋本愛に次ぐ三番手。あのとき、観る者のほとんどは図抜けた存在感に圧倒されたはずだが、その存在感の根拠は不明であり、いや、むしろ、不明であるからこそ、わたしたちは惹きつけられていたのではないか。モデル出身であり、当時はまだ演技力も備わっていなかった。だから、あの作品での東出は、役をかたちづくっていたというよりも、ある意味、理屈を超えた領域で、人間として存在感そのもので(結果的に)勝負していたと考えられる。以後、優しい役や情けない役もこなすようになるが、東出昌大の魅力はやはり<違和>の屹立にその根源がある。この<違和>の刃は、『桐島』から4年を経たいまも健在である。
東出が放つ<違和>は、必ずしも、長身であることからもたらされているわけではない。『寄生獣 完結編』での彼の突出した寄生獣ぶりはもちろん、身体的な迫力によるものだったが、今年公開された黒沢清監督の『クリーピー 偽りの隣人』における東出の不可解にして痛快な吸引力は破格であり、彼が規格外の恐るべき俳優であることを証明した。西島秀俊扮する元刑事を、捜査の現場に引きずり出す元相棒を、東出は真意も行動原理も不明な人物として創出しており、物語の中盤に作品世界から退場した後も、その存在感は尾をひいた。
『クリーピー』で東出が垣間見せるのは、一歩間違えば悪意になりかねない好奇心であり、限りなく虚無に接近した善意でもある。つまり、いかようにも受け取れる。答えではなく、問いだけが延々と放置されているかのような人物の深層が、そこにはあった。
そんな東出が、今度は真逆の方向性から、底知れぬ俳優力を発揮するのが『聖の青春』である。
29歳で病死した実在の棋士、村山聖の最期の4年間を追いかける作品。村山に成りきるため、大増量をおこなった松山ケンイチのアプローチは、既に報道されているように『レイジング・ブル』におけるロバート・デ・ニーロのそれを彷彿させる鬼気迫るものである。それでいて、いわゆる熱演に陥ることなく、夭逝した青年の魂をあくまでもチャーミングに体現した芝居には心から称賛を贈りたい。
東出が演じるのは、村山の生涯のライバルだった羽生善治だ。将棋に興味のない人々にも周知されている、あの羽生名人である。村山とは段違いの知名度を誇り、現在も将棋界を牽引する最前線の王者に扮するのは非常にリスキーな試みであっただろう。
当の羽生本人から譲り受けた眼鏡をかけ撮影に臨んだ東出の姿は、一見、完コピを目指しているかに思える。スチール写真を眺めれば、思わず「そっくり」などと呟いてもしまいそうだ。だが、映画は写真ではない。映像なのである。
東出は、現実の羽生を模倣して、映画に移植しているわけではない。映画にしか存在しない人物を作り上げ、そこに棲まわせる。
それ以上のことはしない。映画的にも、羽生の内面が語られることはない。東出が演じる羽生は、ただ、『聖の青春』という世界に棲んでいるだけだ。だからこそ、東出昌大ならではの不可解にして痛快な吸引力が発揮される。いや、この際、東出は、不可解だからこそ痛快な何かを追い求めながら、人物を形成していると断じてしまいたくなる。
村山にとって羽生は、大いなる目標であり、余命を燃やすための対象でもあった。言ってみれば、羽生は、村山の精神の被写体だった。東出は、作品のこうした視線構造を心得ており、あくまでも、見つめられる人物として、そこに居続けた。