宮台真司の月刊映画時評 第8回(後編)

宮台真司の『ニュースの真相』評:よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない

フロイト、シュタイナーの自動機械批判

 重大なことがあります。僕はラカンを通じてフロイトに遡った結果、完全な同時代人であるフロイトとシュタイナーの共通性に気がつきました。彼らに共通するのは、言語の自動機械的な自己運動に人間が駆動される事態を、カントの自由意志論的な意味で強く嫌悪していることです。

 カントの自由意志論はアリストテレスのパトス論の伝統上にあります。パトスpathosというと情緒や感情(ペーソス)が取り沙汰されますが、元来は「降り掛かるもの」というギリシア語。天災と同じく感情passionも降り掛かるので、感情の赴くままに振舞うことは受動的passiveなのです。

 だからカントは禁欲を奨励します。欲望への抵抗は能動的activeだからです。帝国主義的拡張競争に伴う人類学の時代である19世紀末から活動したフロイトもシュタイナーも、言語的な自己運動に駆動される事態を自動機械automaonとして嫌悪し、そこからの自由を目差しました。

 フロイトは、言語的な自動運動に駆動される事態を無意識に見出しました。シュタイナーは同じ事態を、臨界年齢前に高次感覚(感情的に深く世界を体験する能力)を習得せずに言語能力を身につけることに見出します。両者は共通して言語プログラムに駆動される自動機械を見たのでした。

 ラカンもまさにだからこそフロイトを評価しています。カント⇒フロイト⇒ラカンという系譜上で、自由意志論のラディカル化としてラカンを評価するのがジュパンチッチでした。彼女はスロペニアのラカン派精神分析学者で、著作『リアルの倫理』で広く知られるようになりました。

権威主義的パーソナリティ論の伝統

 僕は中学三年の頃からフランクフルター(批判理論)にコミットして来ました。フランクフルターは欧州マルクス主義の一画をなす、戦間期にナチスに追われた亡命ユダヤ人らのグループです。彼らは、フロイトを用いて、全体主義という1次元性(フラットネス)に抵抗しようとしました。

 よく知られているのは、フロムを出発点とする「権威主義的パーソナリティ」の概念です。自らの没落を意識する、元は没落していなかった社会層が、不安の埋合せとして強きものに所属しようとする、動きの中に見出される、自動機械的な──1次元的な──パーソンのことを言います。

 フランクフルターのこうした理論は、丸山眞男が日本的ファシズムの駆動因として没落有力者層・亜インテリ・下士官を見出すことにも当て嵌まるし、女性の社会進出や性的積極化を背景にして無力「化」を意識するモテない若年男子の、ミソジニーを伴ったネトウヨ化にも当て嵌まります。

 日本会議やそれに連なるネトウヨの夫婦別姓反対・性教育反対・「ジェンダーフリー」反対、女系天皇反対など一連のパッケージも、<社会>的構えというより、無力「化」による不安に苛まれた人々の補償行動という、ショボい<実存>の表出──<社会>と<実存>の混同──だとして分析されます。

新反動主義の背景にイノセンティズム

 さて、ピーター・ティールやメンシウス・ゴールドバーグ等シリコンバレイ系技術者に代表される新反動主義──オルタナ右翼の一部との見方・オルタナ右翼を含むとする見方等いろいろある──に見出されるイノセンティズムは、シュタイナーやフロイトに連なる思考と、実は酷似します。

 そこに見られる伝統的イノセンティズム──ホーボー的なもの──に従えば、ヒラリーに代表される「民主党的なもの」は、言語の自動運動の帰結として、初発の感覚から遠く離れた制度を、馬鹿のように受け入れさせられる全体主義的事態を指します。この認識はフランクフルターに似ます。

 言語の自動運動に支配された機械になるより、言葉以前の欲動に身を任せた方が人間的で善い──。こうした新反動主義の立論は、凡百の4ちゃん系オルタナ右翼(2ちゃん系ネトウヨ)を違って、既に紹介した思想伝統に鑑みても極めて知的で、かかる立論に基づくトランプ支持は侮れません。

 米国の伝統的イノセンティズムは、哲学を嫌い、気分を好みます。だから米国では思想よりも思想以前的イデオロギーが支配的です。現に米国の保守は専ら気分ないしイデオロギーで、思想ないし哲学と言えるものは極く稀です。だから米国では思想史よりも精神史が意味を持つのです。

保守を巡るアメリカ精神史を確認する

 回り道します。米国では言説としては経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の順で出てきます。思想と言えるのは社会保守だけで、残りは気分や精神に過ぎません。19世紀前半にトクヴィルが記述した米国民主主義は、小規模な信仰共同体の自治が核でしたが、思想というより実践でした。

 南北戦争後の19世紀後半、南部の富裕自営農民を基盤に奴隷制維持を掲げた民主党が立場を失いますが、大恐慌後の戦間期後半、ローズヴェルト大統領がニューディールと呼ばれる全体主義的政策を採用し、戦時国債へと繋がった事で、戦後は財界から経済保守の気分が噴き上がります。

 これがリバータリアニズムですが、思想と呼べる内実を持ちません。その後1950年代に迎えた赤狩りのマッカーシズムは東西冷戦を背景とした政治保守でしたが、全体主義的でした。かかる思想不在に警鐘を鳴らして、英国のバーク思想を導入した社会保守が、ラッセル・カークでした。

 彼は、トックヴィルが見出した小規模な信仰共同体での思想ならぬ実践(を支える精神)を再帰的に見出し、教会を核とした地域を大切にすることを保守だとしました。以降、米国で「草の根保守」と言えば、リバータリアニズムでも赤狩りでもなく、銃規制反対に象徴される社会保守です。

 ところが1960年代半ばの北爆開始以降は多数の若者が徴兵され、それを機にスチューデントパワーが炸裂し、反体制的な気分と結びついたフラワームーブメント(ドラッグカルチャー)が席巻、1970年代以降は多数の帰還兵がレイプや殺戮等の犯罪を持ち込み、アノミー感覚が蔓延します。

 アノミーとは、かつて信頼できた筈の共通前提が信頼できなくなった感覚です。これは自分たちが知っている社会ではないという否定的感覚です。そこからエヴァンジェリカルズ(福音書派)の原理主義──社会感覚・共同体感覚抜きで思い込みに没入する宗教保守──が一挙に勃興します。

 こうして70年代以降の米国は、アノミーの蔓延を背景に、共通感覚を欠いた経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の四分五裂状態を深めますが、これを再び「共産主義という共通の敵」を喧伝して保守合同をもたらしたのが80年代のレーガンで、以降長らく共和党の時代が続くのでした。

サンデルによるアメリカ精神史の要約

 しかし90年代に入って冷戦体制が終ると「共通の敵」が失われた結果、経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の四分五裂状態が再来して今日に到ります。こうした精神史に比べれば、ロールズ『正義論』以降のリベラル・コミュニタリアン論争の如き思想史は、米国では意味を持ちません。

 但しこの論争に勝利してリベラル思想の重鎮ロールズを撃破したサンデルは、こうした米国精神史を次のように纏めます。米国精神史の出発点は、トクヴィルが見出したような非再帰的なリバータリアニズムで、これは中央政府を否定しましたが、コミューナルな包摂性と共にありました。

 ところが産業化による人口学的流動化を背景に、タウンシップ(共同体の自治)が空洞化した結果、包摂からこぼれた個人を国家が再包摂するしかなくなり、リベラルの時代(民主党時代)になります。それがベトナム戦争後のアノミーを背景にリバータリアニズムへとバックラッシュします。

 しかし、かつての地域性=タウンシップが、既に空洞化していたため、リバータリアニズムは社会を更に空洞化させる市場原理主義になり下がり、社会がますます疲弊して、社会的空洞を土壌にして宗教原理主義が隅々にまで蔓延る。サンデルが『民主政の不満』で記したアウトラインです。

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