『君の名は。』の出会いは“運命”と呼べるのかーー設定と展開から考える、物語のはじまり

 ボーイ・ミーツ・ガールに“運命”などありえない。

 ケイト・ベッキンセイルとジョン・キューザックがニューヨークのデパートでお互いを探し合う『セレンディピティ』において、出会いは“偶然”で、再会は“幸福な偶然”に過ぎないと語られた。はて、“偶然”とは“運命”なのだろうか。時折我々はその曖昧な単語に困惑してしまう。偶然出会った二人の男女が運命を感じて、などという安直なラブストーリーのプロットは、よくよく考えてみればおかしな話で、“運命”であれば予め準備された筋書きがどこかに存在しているべきなのだ。

 では、立花瀧という東京に住む高校生と、宮水三葉という岐阜の田舎町に住む高校生の邂逅は、果たして“運命”だったのだろうか。

 “運命”に至るためには、まず邂逅シーンに“偶然”が発生していなければならない。奇しくも同じ題名である、1953年の大庭秀雄の名作では、空襲の夜に春樹が真知子を助けたことで二人は“偶然”の邂逅をする。それから、会えない時間に相手を探し続けることで、想いが募り、この二人の“運命”が構築される。ところが、2016年の二人の出会いには、そんな偶発性がない。物語ではなく設定で出会ってしまっているのは由々しき事態だ。

 

 三葉には、宮水家の代々伝わる女系血脈のさだめのように、誰かと入れ替わることが起こり得ることは明かされた。しかし、それを語る祖母・一葉が誰と入れ替わったかは劇中では明かされない。対して、瀧の家系に関しては劇中でちらっと父親が登場する以外触れられておらず、三葉同様の入れ替わり能力が携えられているとは思えない。つまりは、この106分間で提示される情報だけでは、極めてアットランダムな選考が行われたという印象を与えられるだけなのである。

 例えば一葉がかつて入れ替わった相手が瀧の祖父だったとしたら、この二人の出会いは紛れもなく“運命”と呼べる。彗星から由緒ある宮水家の血を途絶えさせないために、何世代にも渡って繰り返されてきた繋がりが、ようやく機能する。いや、どうせ機能するのであれば、もう少し早い方が良かったようにも思える。三年というタイムラグ、生と死を覆すという一連のプロットは、SF要素としてしか発揮されておらず、「生死」という普遍的なテーマと若い二人の恋心を重ねるための要素には活きていない。

 

 しかしながら、仮にこのタイムラグが存在しなかったら、単調なラブストーリーに陥ってしまうし、電話が通じないという現代ではひとつの関係が終息することを表すディスコミュニケーションの切なさが味わえない。逆にそれがより長くあって、三葉が口噛み酒の儀式の後に叫んだように、瀧が三葉の生まれ変わりであれば、きっとあのクライマックスは瀧が自身の存在とのジレンマに打ちひしがれ、よりSF的要素が強い展開になっていただろう。いい塩梅という点では、三年ぐらいの月日がちょうど良かったということだろうか。

 劇中ではさらに五年の月日が流れる。それもまたあまりにも唐突に時間が過ぎ去り、たった一言で二年の月日が流れた寺尾聰の『ルビーの指環』のように、その間に空虚な時が流れていたことを証明している。しかも東京オリンピック後の東京の姿が、現在と何ら変わり映えのしないものだから、なおさらである。

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