門間雄介の「日本映画を更新する人たち」 第6回(中編)
山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(中編)
『リンダ リンダ リンダ』の出演者をキャスティングする過程で、山下はまだ名を馳せる前の10代の女優たちに数多く会った。惜しくも出演に至らなかったそんな少女たちのひとりが、エンドロールにもクレジットされた木村カエラであり、また別のひとりが同年に公開された『パッチギ!』で絶賛を浴びた沢尻エリカである。井筒和幸が監督した『パッチギ!』は、この年のキネマ旬報ベスト・テン日本映画1位に輝くほか国内映画賞でたくさんの賞を獲得したが、この作品を製作したのがシネカノンの代表だった李鳳宇だ。思えばこのシネカノンの、李鳳宇の栄枯盛衰こそ、00年代からいまに至る日本映画の激動を、もっともよく象徴する出来事だったといえる。
1989年にシネカノンを設立した李鳳宇は、93年に初プロデュース作品『月はどっちに出ている』を世に送りだし、日本映画の製作に精力を傾けだす。00年『シュリ』、01年『JSA』とつづけて配給した韓国映画を大ヒットに導き、その後の韓流ブームに先鞭をつけたのもシネカノンの功績だ。李鳳宇がプロデュースする作品は、それが原作をもとにするものであっても、なんらかの脚色を施したオリジナル作品として成立するものが多かった。例えば『パッチギ!』は『少年Mのイムジン河』という70ページ弱の回想記が原案だが、そこに李鳳宇自身の朝鮮高校時代の経験などを肉付けして、井筒と脚本家の羽原大介の手により骨太なストーリーに仕立てあげられている。
90年代後半以降、国際映画祭で高い評価を受ける作家主義の作品と、『踊る大捜査線 THE MOVIE』をはじめとするテレビ局製作のエンターテイメント作品が両輪となって、日本映画はかつてそれを観なかった層にまで広く浸透していった。だが00年代に入り、海外の評価がそのまま国内の興行成績と直結しないことが徐々に露呈する。一方、シネコンの普及を背景に、テレビ局が製作するようなメジャー作品は大規模な宣伝との相乗効果で、大量の観客を動員することに成功した。李鳳宇が狙ったのはその中間だった。生粋の映画好きをうならせ、同時に年数本しか映画を観ない人たちをも取りこむ、インディペンデントとメジャーの間に立つポジショニング。世界的に見ても、20世紀フォックスの傘下にあるフォックス・サーチライトやパラマウント映画の一部門だったパラマウント・ヴァンテージが、大作ほどの規模でない優れた作品を製作するなど、インディーとメジャーの中間にはもっとも創造的で、もっとも実り多い沃野が広がっていると思われていた。
ある日、李鳳宇がプロデューサーの石原仁美から持ちかけられたのは、常磐ハワイアンセンターの実話を映画化する企画だった。規模縮小に追いこまれた常磐炭鉱が新たにレジャー施設を作り、仕事を失った炭鉱夫の娘たちがハワイアンダンサーとして夢をかなえる、昭和40年の物語だ。脚本の開発に3年の月日を費やし、ようやく監督の人選に取りかかろうとしていたとき、李鳳宇は以前から製作現場を紹介したり、02年サッカー日韓ワールドカップのドキュメンタリーで仕事を依頼したりしていた若い映画監督、李相日の名を思いつく。李相日はこの意欲的な題材を得て、炭鉱町の過酷な様子をきっちりと描写しながら、フラダンスに希望を託す少女たちの青春をエモーショナルに刻みつけた。2006年に公開された彼の長編5作目『フラガール』は、独立系作品としては異例の172スクリーンからスタートし、ロングランをつづけた末に15.2億円の興行収入を叩きだすことになる。なおかつキネマ旬報ベスト・テンで日本映画1位に選ばれ、日本アカデミー賞では最優秀作品賞、最優秀監督賞を含む計4部門を制覇した。
「原作もなく、大手映画会社の配給作でもなく、テレビ局の出資もない映画が、空前の邦画ブームだった年の頂点に立ったことは意味があります。重くて古い扉が、いまやっと開いた感動を抱いています」
日本アカデミー賞の授賞式で、製作者として舞台に立った李鳳宇はこう高らかに宣言したが、テレビ放送された特別番組ではこの様子がまるまるカットされてしまっていた。ともあれ、06年は興収において、85年以来21年ぶりに日本映画のシェアが海外映画を上回る年になった。そんな一年を代表したのは、インディペンデントとメジャー、作家主義とエンターテイメントの狭間で作られた『フラガール』だった。
00年代、シネカノンと同じ独立系のスタンスで、新しいテーマ性やスタイルを持つクオリティーの高い日本映画を多く生みだしたのがアスミック・エースである。アスミック・エースの前身となるアスミックは、ミニシアター・ブームの決定打となる『トレインスポッティング』を96年に配給し、もう一方の前身であるエースピクチャーズは製作した『失楽園』『リング』などの日本映画をつづけざまにヒットさせていた。両社が合併したアスミック・エースはその双方の強みを生かして、単館系を中心とした海外映画の配給と、そのような海外映画の観客にも響く斬新な日本映画の製作をおこなっていく。
02年に公開された『ピンポン』は、松本大洋原作の忠実な再現、『GO』が高く評された宮藤官九郎の脚本、CGによる対戦シーンの演出、SUPERCARや石野卓球の楽曲を用いた音楽など、そのプロダクションワークにおいて画期的な作品だった。渋谷シネマライズを中心に全国96館で拡大公開されたこの作品が興収14億の大ヒットを記録すると、翌03年には『ジョゼと虎と魚たち』がシネクイントの歴代3位となる興収をあげ、アスミック・エースのブランド力は他社と一線を画したものになる。そんな『ピンポン』『ジョゼと虎と魚たち』をプロデュースした小川真司が、『リンダ リンダ リンダ』の根岸とともに、山下の07年作品『天然コケッコー』のプロデュースに当たった。くらもちふさこの原作を『ジョゼと虎と魚たち』の渡辺あやが脚本にした青春恋愛劇は、田舎町ののどかな風景が愛おしく、そこで暮らす少女や少年たちの表情がみずみずしい一作だ。山下はこの作品で報知映画賞監督賞を史上最年少で受賞した。