監督と助監督、それぞれの仕事 菊地健雄インタビュー「映画人である前に、社会人として」
師匠・瀬々敬久監督
−−助監督で一番辛かった思い出を差し支えない範囲でお聞きしたいのですが。
菊地:いやもう辛い思い出ばかりで選べないですね(笑)。でも、強いて挙げると、チーフ助監督になりたての頃に『アブラクサスの祭り』(10年/監督:加藤直輝)の現場で、天気読みをことごとく外したことがあって。それでその現場では「裏目の菊地」という不名誉なアダ名で呼ばれてました。天気ばかりは自分のせいでないと自分に言い聞かせるしかないのですが、それでも自ら組んだスケジュールが崩壊していく様をただ途方に暮れて見ているしかなく、もう頭が真っ白になって煙草を吸うしかできなかったことですかね。現場も大変でしたが、毎日スケジュールを組み直さなければならなかったのでベッドに辿り着けなかった思い出があります。
−−こうしてお話をしていても菊地さんの人柄のよさがよく分かります。助監督として多くの監督に求められる理由をご自身ではどう考えていますか。
菊地:瀬々さんに「何で自分を助監督に誘ったんですか」って聞いたことがあるんですけど、「お前は単純に“座持ち”するから」と。あとは「お前がいると現場が和む」とも言ってくれて。
−−今日が初対面ですけど、確かにそれは分かる気がします(笑)。
菊地:正直、そんなことが理由だったのかとガッカリしたんですけど、十数年助監督をやって昨年監督作を撮れたのもその部分が大きかったのかなと今は思います。僕より優秀な助監督が他にも沢山いるなかで、この性格と“映画を作りたい”という強い思いだけで生き残ってこれました。まあ、なにより志をもった人が集まって、ああでもないこうでもないと頭を悩ませながら何かを一緒に作っていくというのが昔から好きなんですよ。
−−様々な個性の監督の下で仕事をされてきて、それぞれに尊敬すべき点があったと思うのですが、やはり最初に付いた瀬々監督は特別な存在ですか。
菊地:やはり師匠といえるのは瀬々さんになりますね。瀬々さんから何を教わったかと思い返したとき、演出のやり方や映画の捉え方を学んだというのも当然あると思いますが、一番鍛えられたのは映画人である以前に社会人として、人として、どうあるべきかという点なんです。映画を作ることは、アート的側面や表現活動とも言えますが、一方で、他人のお金で仕事として作るという側面もあります。そして、その映画にお金を払って見てくれる観客がいて、はじめて成立する訳ですよね。そうやって様々な部分で関わってくれた人たちに誠意を示すには、社会人としての礼儀がまずあるべきなんだと。助監督としての仕事というよりも、いかに自分が関わっていく人たちそれぞれときちんとコミュニケーションを取らなくてはいけないか、その点に関して強く叱責も受けましたし、指導してもらいました。そのおかげで今の自分があると思います。
−−瀬々監督の作品(特に初期)だけを見ている人からしたら意外なイメージかもしれませんね。
菊地:僕も瀬々さんと知り合うまでは、どんな酷い監督がこんな映画を作っているんだろうと思っていたんですよ(笑)。他にも例えば、熊切和嘉さんも『鬼畜大宴会』とかすごい映画を撮ってましたけど、本人と会った時はイメージしていた人間像とまったく違って。やっぱり、活躍している監督方は、社会人としてしっかりしているし、人間的にもチャーミングなんです。だからこそ、しんどい思いをしても、良いカットが撮れたときの監督の笑顔が見たくて、また仕事をしてしまうんです。瀬々さんがよく言うのは「所詮、人間同士が作るもの。映画はひとりじゃできない。だからこそ、きっちり守らないといけないルールがある」と。この言葉は『ディアーディアー』を撮ったときも大事にしていました。