『ジャングル・ブック』の“作り物のジャングル”が示す、圧縮された社会モデル

 ブルーバックと呼ばれる真っ青な色の壁に囲まれ、たったひとりだけで演技する小さな主演俳優。本作『ジャングル・ブック』の撮影風景は、かつての実写映画とは全く趣が異なる。「少年以外すべてCG」と謳われているように、本作の舞台となるインド奥地のジャングルや、登場する大勢の動物キャラクターたちは、その多くがコンピューター・グラフィックによって形づくられている。ここでは、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』で本格的に確立された、実際の撮影後に追加される合成映像をCGで製作するという手法がさらに徹底され、全編で駆使されている。本作は実質的には実写映画でなく、一部実写映像が取り入れられている、実写風のCGアニメーション作品なのだ。

 実写映画の多くは、魅力的な俳優を被写体とすることで映像に価値を持たせているし、アニメーションは作り手の生み出すイマジネーションや技術によって画面を豊かにしている。しかし、実写の一部をリアリティあるCGに置き換えるという行為は、そのどちらとも異なる。本作では、時間が早回しされて季節が移り変わる風景の中をカメラが移動していくという、実写では撮影不可能なシーンがあったり、俳優によって吹き替えられる声の演技を反映するようなキャラクターの動きなど、アニメーションとしての魅力というのも少なからずある。だが、それ以外の多くのシーンから分かるように、ここでは基本的に、実写でないものを実写だと観客に誤認させるトリックによって、あくまで実写としてアニメーションを成立させようとしている。つまり、CGがCGだと認識できないリアリティある世界を構築することを目指しているのである。では、このCGによる「作り物のジャングル」を使って、作り手が描きたいものとは何なのだろうか。

 

 「ジャングル・ブック」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、1967年のディズニー・アニメーションだろう。ウォルト・ディズニーが手掛けた最後の作品であり、常識を超えて描線の多い絵柄を動画化する至高の手描き技術を味わえるディズニー映画におけるクラシックのひとつである。そこで描かれた冒険物語は、主人公の少年モーグリの視点からの成長はもちろんだが、それ以上に、彼を助ける動物たちの親の立場からの視点が強く、子供の成長を喜ぶ心理と自分の手から離れていく寂しさを描いていた。

 だが、イギリスの作家ラドヤード・キップリングが、インドに滞在した経験を基に創作した原作小説は、狼少年であるモーグリが、動物と人間両方のコミュニティから疎外されていくという、ボーダーラインの間に身を置く人間の過酷な運命について描かれたものだった。ディズニー・アニメーションが、現実世界の差別を想起させるテーマをメインに据えることを回避したのは、やはり子供向け作品としては深刻過ぎるという判断があったからだと思われる。ディズニーの二度目の実写映画化作品となる、本作『ジャングル・ブック』は、その本来の小説のテーマに最も回帰する一作だ。この路線を可能にした背景には、子供の教育のために煙草を吸うシーンを除外するという方針を定めながらも、その反面で積極的に重いテーマを扱っていく姿勢を見せている最近のディズニー作品の時代的傾向があるだろう。

 人間であるモーグリ少年は、親代わりの狼の愛情と庇護を受けて過酷な自然のなかで生き延びてきたが、仲間たちよりも身体能力が劣ることで、一族のなかで落ちこぼれと見なされていた。ある日、ジャングル最強の虎、シア・カーンの人間に対する恨みによって、モーグリ少年は狼のコミュニティから離れざるを得なくなってしまう。モーグリを手助けすることができるのは、黒豹のバギーラ、熊のバルーという、ジャングルを支配する権力のしがらみから離れ、団体意識が希薄な動物たちである。

 

 とくにバルーは、狼たちの団結や誓いを「考えの押し付けだ」と指摘し、規律よりも自分の意志や個性を尊重した自由な生き方をモーグリに提示する。ヒッピー的生活を謳歌するバルーは、悪友として良くも悪くも視野を広げてくれる存在である。ここまでの流れは、子供が成長し独立していくまでの、ひとつの精神的過程を簡潔に示しているといえる。幼い頃は社会性が未熟なため、保護者が強制的に最低限の規律を押し付けなければならない。だがそれを身に着けた後は、むしろそのような社会的因習や、刷り込まれた偏見について懐疑し、様々な考え方に触れることで視野を広げることも必要になってくる。

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