宮台真司の月刊映画時評 第7回(後編)
宮台真司の『シリア・モナムール』評:本作が『ヒロシマ・モナムール』の水準に留まる事実への苦言
『二重生活』との共通性ーー社会よりテクノロジーに適応せよ
『シリア・モナムール』は、シリア内戦で現地の人々が撮影してYouTubeやSNSにアップした映像を再構成したドキュメンタリーで、『二重生活』同様、社会も人格も、<関係の偶発性>に身を晒した途端にリアリティが失われる程度の、「書割」と「影絵」に過ぎないにも拘わらず、その程度のショボい営みが数多の悲惨さを生み出す事実によって、我々に衝撃を与えます。
シリアからパリに亡命したオサーマ・モハンメドが、包囲攻撃中の街で暮らすクルド人女性シマヴとSNSで繋がり、彼女が送って来る記録映像から現地の様子を追うーーこれは<関係の偶発性>そのものです。「国家」や「国境」や宗教の「敵/味方」に関係なしに繋がる2人は、インターネットに先立って80年代半ばのテレクラが切り開いたのと同じ<匿名的親密さ>を生きます。
全ての家族が個室のPCや携帯情報ツールを通じて見知らぬ誰かと繋がって<匿名的親密さ>を生きるーー80年代の日本に始まるこの営みを<一つ屋根の下の赤の他人>と表現して来ました。<匿名的親密さ>は<一つ屋根の下の赤の他人>を可能にすることで容易に境界を越えます。「屋根」という言葉の所に「国家」や「宗教」という言葉を入れれば思い半ばに過ぎるでしょう。
テレクラからSNSまでの系譜を描き出す「出会い系」に人がハマるのはなぜか。<一つ屋根の下の赤の他人>というリアルが、リアリティを変性させるからです。正確には「出会い系」が<一つ屋根の下の赤の他人>というリアルをもたらした訳ではありません。始めからそれがリアル(現実)ですが、そのリアルの暴露が我々に新たなリアリティを感じさせるようになっただけです。
人は長らく、家族が一つ屋根の下でリアルをシェアしている、というリアリティ=ファンタズムを生きて来ました。それが「出会い系」ーー性愛系に限らずテレクラからSNSまでの系譜を一括ーーを通じて<関係の偶発性>に面した途端、「誰もがこれ程の複雑性の海に棹さしていたのか」と気付き、<一つ屋根の下の赤の他人>というリアル=未規定性へと、開かれるてしまうのです。
これは重大な感覚です。「出会い系」というテクノロジーを通じて、家族や地域の共同体を含めたどんな「仲間」も、社会という言語的プログラムの構成物を支えるための言語的に構成されたファンタズムに過ぎない事実ーー<ウソ社会>ぶりーーに開かれると、そのリアルの、過剰なリアリティがもたらす享楽jouissanceゆえに、かつてのリアリティに戻れなくなるのです。
家族から国家に到るまでの全てが、言語的に構成された社会を支える、言語的なファンタズムに過ぎない事実に、気付いた者達が直面する渾沌と、再出発ーー。『シリア・モナムール』と『二重生活』に共通するモチーフです。アリテトテレスが2400年前に気付いた通り、大規模定住社会はファンタズムが与える<なりすまし>(=最高善)なしに回らないことーー。
パーソンが<なりすまして>生きる社会。正確には個体がパーソンに<なりすます>ことで支える社会。社会には国家もあれば信仰共同体もあれば血縁共同体もあれば党派もあります。ローテクノロジーによる不可視性が<なりすまし>のファンタズムを支えて来たのが、テレクラからSNSに到るテクノロジー(が与えるアーキテクチャ)がリアル=未規定性を暴露したのです。
そこで露わになったリアルを、新たなリアリティ=ファンタズムが覆います。『シリア・モナムール』の劇場パンフレットには、それは「愛」であると語られます。国境に隔てられた人の繫がりを、テクノロジーが無効化し、かわりに「愛」が人を繋げます。実際「愛」であるのか否かは別にして、国民共同体や信仰共同体とは別の境界設定が持続的に可能になりつつあります。
テクノロジーがより重大なリアリティ=ファンタズムを既に浮上させているのに、重大でなくなりつつある旧来的なリアリティの枠の中で、なぜこれ程の悲惨が起こるのか。それは家族共同体の・国民共同体の・信仰共同体の悲惨ですが、『シリア・モナムール』も前回扱った『二重生活』も共に、この奇妙で滑稽な事態への新たな構えを促していると言えるでしょう。
冒頭に申し上げた通り、映画が何を描くかに関係なく、人は今日このことに疑問を持たざるを得ないし、持つべきです。この映画自体、YouTubeやSNSにアップされた悲惨な映像ばかりかき集めているので、「悲惨さ」という感情的事実に制作者が注意を奪われ、観客も同じく縛りつけられています。でも「悲惨だ、何とかすべきだ」という理解では本質的モチーフに届きません。
制作者が自覚するか否かに関係なく、この映画は「何が悲惨さをもたらしているのか(答え=ファンタズム)」「そのことに気付かせてくれるものは何か(答え=テクノロジー)」をモチーフにしています。制作者の意図とは無関係に、「社会よりもテクノロジーに適応することによって、社会が<なりすまし>のゲームに過ぎない事実に気づけ」と促しているのです。