宮台真司の月刊映画時評 第6回

宮台真司の『キム・ギドクBlu-ray BOX初期編』評:初期3作が指し示す「社会から遠く離れた場所」

弱者が織り成す<過剰>の群像が美しい

『魚と寝る女』(c)2000 MYUNG FILMS All Rights Resevred.

 そこにもう一つの要素を加えられます。『魚と寝る女』や同じモチーフを反復した『春夏秋冬、そして春』が最も先鋭的ですが、ギドクには、弱者の織りなす<過剰>の群像を、遠くから眺める感覚があります。そこには戦争批判も恋愛批判もなく、単に<美>への開かれがあります。

 そこでの<美>とは何か。『魚と寝る女』に分かりやすい構図があります。先に述べたようにギドク界の住人は<社会>を生きられない弱者です。その証拠に彼らは言語を使えず、「痛み」を与え合うというエゴセントリックな方法で「交流」します。ただ「交流」という言葉が誤解の元です。

 彼の「交流」には、僕らが「コミュニケーション」という言葉を使うときに空想する「伝達」や「分かち合い」がありません。互いに「痛み」ゆえに相手にもたれかかる相互依存関係があるだけです。これは全ギドク作品に共通する重要なモチーフで、特に初期作品に於いて鋭く示されています。

 こうした閉じた相互依存関係は、安定して静謐だが、飽くまでエゴセントリックであるーー。この奇妙なモチーフは、僕が今から十数年前に、奈良県の部落解放同盟で、お祭りの期間に講演した際の、僕自身がひどく動転した経験を、思い出させます。簡単に紹介しておきましょう。

弱者でなくなった途端に<美>は消えよう

 僕は講演で「江戸末期以降の部落は極めて相互扶助的で、それを今でも継承するのは日本に残された数少ない美徳だ」と語ったのですが、打ち上げの席で幹部が「そう言ってくれてありがたいが、美徳というのは違う。さもないと生きられないから、そうしているだけだ」と仰言った。

 彼は続けます。もし被差別部落の状況が改善し、相互扶助が不要になれば、その瞬間に全てが終わるだろう。部落解放運動の運動目標は、我々が弱者でなくなることだが、我々が弱者でなくなることで、あなたの言う<美>は永久に失われ、単にあなた方と同じになるのである、と。

 宮崎学氏が部落出身である事実をカミング・アウトした『近代の奈落』(幻冬舎)にも同じ趣旨の記述があります。宮崎氏は更に踏み込んで、弱者たることが<美>の源泉なら、一般人と同等になることはやめて、程度問題ではあるが弱者であり続けるべきではないか、とまで言います。

 これは僕自身が亜細亜主義を研究する中で、ずっと思ってきたことです。実際、岡倉天心や大川周明は、弱者であるがゆえの亜細亜の<美>の文明と、強者であるがゆえの欧米の<力>の文明を対比させています。雑駁な図式ではあるけれど、本質の一部を穿っていると感じます。

ありもせぬ<交換>を夢想する浅ましき存在

 同じことを、部落だけでなく、在日や沖縄を考えるときにも感じてきました。でも天心や大川がこれを語れたのは、自分(達)が弱者当事者だと意識できたからです。部落・在日・沖縄などの弱者当事者に対して、強者である僕がそれを語ることは、構造的に困難だと思ってきました。

 ギドク界の住人が見せる弱者の相互依存は、エゴセントリックでセルフィッシュだけど、だから<美>なのです。それは蜘蛛の巣がそうであるような一つの秩序です。蜘蛛は、美しい物を織り上げようと企図するはずもなく、「単に生きるために」巣を張ります。だからこそ、美しい。

 生き物が作り成す美しい秩序は、全てがそういうものです。ギドクには弱者による<過剰>の群像がそう見えているのでしょう。我々の実存という近接した場所から見れば<過剰>だけれど、<社会>の遠隔から見れば――<世界>から見ればーー生き物の織り成す<美>を見出し得る……。

 だからギドク界の弱者は救済されてはならない。宗教を通じた想像的救済もダメ。救済されれば<美>は失われ、ありもせぬ<交換>を空想して<クソ社会>を生きる浅ましい存在しかいなくなるーーこれはギドクに触れる前からの僕の感覚だったから早くから彼に注目してきたのです。

変則的な『悪い男』に設けられたクソフェミ対策

 この3作では『悪い男』だけが変則的です。だからこれを観たときは驚きました。先に言いました。“<世界>のデタラメゆえに特異点に縋る者は、それゆえに裏切られてますます<世界>のデタラメに直面する”というのがギドク界の摂理で、それが強烈な寓話性を醸し出すのた、と。

 ところが『悪い男』は当て嵌まらない。無頼のハンギは女子大生のソナを監禁、苦界の道行を共にしますが、最後まで裏切られません。視座がソナ側に移るからです。ソナも、ハンギとの関わりを通じ、<交換>バランスを空想で調達する社会の<クソ社会>ぶりを確信するに到る…。

 だからこそソナは、ハンギが逃がそうとしても逃げず、ハンギとの道行を自発的に選びます。僕が「クソフェミ」と呼ぶ左翼フェミニストの一部は、「ストックホルム症候群を男に都合よく解釈している」とホザきましたが、あまりの鈍感さと頭の悪さに開いた口がふさがりませんでした。

 ギドクはそういう解釈を予想して釘を刺しています。ラスト近くの浜辺のシーンで、ハンギとソナが写った古い写真が出て来ます。時間的関係の崩れが「夢オチ」を暗示します。サヨフェミが噴き上がったら「これは可哀想な男の妄想だから」と言い訳できるようになっているのです。

関連記事