宮台真司の月刊映画時評 第5回(中編)

宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化

<仲間の擁護>と<正義の擁護>のアンチノミー

 我々には究極の選択が突き付けられています。「仲間や家族を守るべく、不公正な事実性に居直る」選択Aか、「普遍の正義に拘り、仲間や家族の生存をリスクに晒す」選択Bか。この<仲間の擁護>と<正義の擁護>のアンチノミーに於いて我々は常に既に<仲間の擁護>を選んでいます。

 むろん、Aを選べば、見掛けや喧伝に拘わらず、社会は部族間闘争・軍閥闘争の時代と等価になり、Bを選べば、高度技術社会は所謂テロに無防備になります。いずれを選んでも今後は多くの「無辜の民」が殺され、塗炭の苦しみを舐める時代が来ますが、それでもAが優位になる他ないでしょう。

 なぜなら、法制史の定説に従えば、法的執行の歴史的出発点は血讐(目には目を!)であり、血讐の機能は「犯罪抑止」や「感情的回復」よりむしろ共同体を護持する「社会的意志貫徹」にあるからです。ならば近代国家は、それが普遍の正義か否かに拘わらず最初からAを選ぶしかありません。

 敢えて十字軍の歴史的怨念に言及する迄もなく、アガンベンが20年前に示した「ホモ・サケル」概念が示唆する[包摂か排除かの選別地平に在る者/地平から排除された者]という区別が、近代社会の──引いては大規模定住社会の──<根源的な未規定性>の在り処を明確に指し示します。

 近代社会の綻びは、ブッシュ政権や安倍政権によるのでも、内外戦後体制によるのでも、グローバル化によるのでもありません。遙かに奥が深い本質的原因によるもので、要は、大規模定住社会が随伴する<自明な仲間を守るべく、非自明な仲間を守らざるを得ない>構造に由来するのです。

 冒頭に戻ると、「近代社会は普遍化できる筈なのに、何らかの悪や理不尽の所為でうまく行かない」のではない。「近代社会の普遍化は本来不可能なのに、何らかの隠蔽装置により、近代社会の普遍化が可能だと勘違いした」のです。ここでも<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ。

 抽象的には言語の構造に由来します。[意味/無意味]というコードを機能させるには、非意味を排除せねばなりません。「[意味/無意味]/非意味」の構造です。非意味を排除した地平に登場するのが、主権国家達であり諸国民達です。主権国家を形成できない者達には登場できません。

 戦後間もない頃、J・クラッパーは、俗情に媚びたメディア悪玉論を批判、引金要因(きっかけ)と火薬要因(本体)の峻別を説きました。同じく、ブッシュや安倍がどうのこうのという政策的失敗は引金要因に過ぎず、時間の問題でいずれ問題が噴出することが約束されていたのでしょう。

 以上の準備を踏まえて、前編で僕が『FAKE』に寄せたコメントを紹介したのと同じように、『カルテル・ランド』に寄せたコメントも紹介して措きます。既にお話ししたことが、文面もそのままに流用されていますから、皆さんにはもはや中身の説明は必要がないだろうと思います。

究極の選択が目の前にある。「仲間や家族を守るべく、脱法行為に居直る」選択Aか。「法と正義に拘り、仲間や家族をリスクに晒す」選択Bか。Aを選べば国家以前の部族間闘争に逆戻りだが、Bを選んでも国家は無法な暴力に無力だ。メキシコの麻薬戦争の最前線で目撃される状況は、テロに脅える我々にとっても、無縁のものではなくなるだろう。

まともに見えるものは実はまともじゃない

 昔ならば、『カルテル・ランド』を観た観客の大半が、「僕らの社会はうまく行っているが、メキシコの社会には問題があるかうまく行かない」という風に受け取った筈です。しかし今ならば、「僕らの社会が抱えている問題がまるごとここに映し出されている」というふうに見えるのです。

 僕らはかつてと違って「僕らの社会はうまく行っている」とは思ってないけど、百歩譲ってそう思ってる場合も、僕らの社会がうまく行くことと彼らメキシコの社会がうまく行かないこととの間には深い関係があり、謂わば「前者が後者にシワを寄せることで支えられている」のは自明です。

 その意味で、アガンベンも大きな影響を受けたフーコーが言うように、まともに見えるものは実はまともじゃないのです。ラカンが言うように、まともに見えるものに埋没している人間こそ病気です。彼らは総じて「まともじゃない人間が本当のことを知っている」という議論をします。

 でもこうした議論が流行ったのも1960年代後半から90年代前半迄の話。92年に冷戦体制が終り、数年間の「平和の配当」を経て、97年のアジア通貨危機を迎える頃迄には、グローバル化の副作用への共通認識を通じて「まともに見えるものがまともじゃない」ことは人口に膾炙しました。

 かくて“まともに見えない人間”を取り立てて擁護する必要がなくなりました。だから、森達也『FAKE』が佐村河内氏を擁護する身振りをさして示さないように、『カルテル・ランド』は麻薬カルテルのメキシコ人やその被害を受けたメキシコ人を擁護する身振りをさして示しません。

 日本会議問題やトランプ問題を持ち出す迄もなく、僕らの社会がデタラメなのはもはやデフォルトで、デタラメぶりを証明する為のシンギュラリティ(特異点)が『カルテル・ランド』に描かれている訳ではない。僕らが「そう」思っている事が確かに「そう」だと確認させる為の作品です。

 そうした我々の体験様式にも<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>への移行があります。だから映画は、社会をダメにする悪の大ボスを見出して成敗しようという、かつてならありがちな展開を見せない代わりに、社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化します。

 マシュー・ハイネマン監督は森達也監督と同じで「うまく回る筈のシステムをダメにしている悪の大ボスは誰だ?!」といった関心を持ちません。彼らは共通して、誰かを退治して「さあ、これでシステムはうまく回るぞ」と思うような、頭の悪さや非倫理ぶりを、徹底的に嫌悪しています。

 永久にうまく回らないシステムで、しかしそのことを確信しながら、うまく回らないシステム(クソ社会!)に適応して生きようとしない──生きられない──存在として、『FAKE』は佐村河内氏に惹かれ、『カルテル・ランド』は自警団リーダーの医師ホセ・ラミレスに惹かれています。

 つまり森監督とハイネマン監督は佐村河内氏とラミレス医師の「存在」で救われています。実際、「世直し家」でありながら最後に収監されるセクハラおやじのラミレス医師は、佇いが最高でした。世直しを支える善悪軸や世直しの現実性を、横に置いて、そう生きてみたいと思わせるキャラです。

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