“半SF”映画としての『太陽』ーー演劇性重視のアプローチで描きわけた2つの世界

“半SF”映画としての『太陽』

 まず、このような勇敢な作品が今の邦画界で生まれたことには、拍手をおくるべきだろう。明確な正義があるわけでなく、結末に幸福が約束されているわけでもない。安易なクローズショットや劇伴音楽による感情の説明も避けられ、かといって気取りも一切ない。作り手はただ、このフィクションに対し、世界の真実を見つめるかのごとく強い眼差しを向ける。そして、その気迫が観客となった我々にも感染するのだ。

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 監督・入江悠の作品なので、このような事態が初というわけではない。インディーズ映画界を揺るがした『SR サイタマノラッパー』シリーズ。特に第3作目『〜ロードサイドの逃亡者』での圧倒的な熱量は、邦画史に焼け跡を残した。この『太陽』では、劇団イキウメを拠点に活動する前川知大とのコラボーレションの成果として、あの温度はそのままに、よりたくましく洗練されている。そして、入江悠が決してパワフルな勢いだけの監督ではないということが顕著になった作品だ。それは本作が「SF」というジャンル映画でもあることにも関わっている。ハリウッドのメジャースタジオなどがCGを多用できるのとは異なり、限られた予算の製作体制の中でSF映画を作り、それをリアルに感じさせるのは容易いことではない。考え抜かれた演出戦略が必要不可欠だ。

 そんな歴史的成功例として、ゴダールの『アルファヴィル』という映画がある。当時SF映画において当然と考えられていたスタジオセットやミニチェアを一切用いずに、実際のパリの街をモノクロームで切り取り、近未来ディストピア世界を批評的に描いた『アルファヴィル』は、SF映画ジャンルのみならず、映画史に多大な影響を残した。主に山梨県の山奥でのロケーション撮影を敢行した『太陽』も、この『アルファヴィル』から連なる「半SF」映画の系譜に置くことができる作品と言えよう。そして、『太陽』には入江悠独自のアプローチがはっきりとある。

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 それは大きくいって「演劇性」だ。映画『太陽』の原作は劇団イキウメによる同名演劇であり、監督の入江悠はこの物語自体が元来もつ「演劇性」を、排除するのでなく積極的に取り入れている。ここでいう「演劇性」とは、主に俳優らの芝居の質感とそれを捉えるための長回しによる撮影に対して指す。この2点は入江悠の通常の演出方法でもあるので、その作家性はもとから演劇にマッチしていたともいえよう。

 まず、俳優の演技について記したい。本作の舞台となるのは、ウイルスによって人類が旧人類と新人類の2種に分かれた世界である。そのうち、旧人類であるキュリオ側のキャラクターらの演技は感情的だ。特に神木隆之助演じる鉄彦の挙動は、種類こそ違うが『汚れた血』をはじめとするレオス・カラックス作品のドニ・ラヴァンのごとく、叫び声をともなって過剰なアクションに徹する。対して、新人類ノクスの演技は、まるでアンドロイドかのように平坦だ。こうした演技的な差異が象徴的に対比されるのは、セックスにまつわるシーンだ。キュリオ側ではあるセックスが暴力的に行われるのに対し、ノクス側では歩きながらの無味乾燥とした会話で処理される。この違いの元となるのは「感情」だ。感情をコントロールできないキュリオと感情が消えているノクス。そのことが衝撃的に伝わってくるのはラスト。2つの種族の演技の差異が明確になり、誰もが愕然とするだろう。

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