母子の拉致監禁を題材にした『ルーム』が共感を呼ぶ理由ーー“母親たちの物語”として観る

 現在公開中の『ルーム』は、ある日突然拉致・監禁された女性が、犯人との間に生まれた子どもと共に脱出を目指すショッキングな設定の物語である。こういった“拉致監禁モノ”は、『悪魔のえじき』のように凌辱とその後の復讐をエゲツなく描写したものや、『隣の家の少女』のように実話をもとにした凄惨なものまで、数えきれないほど映画化されてきた。『ルーム』がこれらと大きく違うのは、過酷な監禁中の生活だけでなく、脱出後の生活を淡々と生々しく描いているところ。そして、母親と息子二つの視点が存在するという点だ。

 
5歳の息子ジャックは脱出するまで、自身がとらわれていた“部屋”以外の世界を知らなかった。“部屋”での生活は外の世界に比べれば劣悪だが、比較対象が存在しないため、“監禁されている”という事実すら認識することはない。それゆえ彼の視点から見た物語は、不安と希望に満ちた成長譚の一面を持つことになる。一方、外の世界を知る母親・ジョイにとっての監禁生活は筆舌に尽くしがたい過酷なもの。その上、子どもを犯人の手から守らなくてはならないのである。そして、脱出後は元の世界に適応すること、そして何より息子を育てることに苦しむことになるのである。ショッキングな設定からスタートしているが、脱出後には一人の母親が困難に直面する物語へと変化していくのである。本作を観た方の多くは“拉致監禁モノ”の陰惨さや脱出のカタルシスではなく、共感を覚えるという。ここでは、その理由を母親・ジョイの監禁中・脱出後の描写から考えてみよう。

過激な描写を排除した監禁・凌辱シーン

 

 本作には、明確に“拉致監禁モノ”にありがちな過激さを避けていると思われる描写が数多く見られる。例えば、母親・ジョイが“部屋”から脱出するための格闘する場面はほとんど登場しない。過去に監禁犯の打倒を試みたことがわかるセリフはあるものの、彼女はただひたすらに機会をうかがうのみだ。また、毎夜のようにジョイが凌辱されていると思われる描写もあるが、直接的な表現は一切登場しない。一方で、犯人が2人を生かすために食物を買い与えたり、支配するために最低限の世話をこまめにこなす姿は、生々しく細かく描写されているのである。ジャンル映画としての“拉致監禁モノ”を観慣れていると、こういった見せ方には肩透かしを食らうはずだ。

脱出後に描かれる、あくまで現実的な困難の数々

 

 脱出後の母親・ジョイはどういう行動に出るのか。ありがちな“監禁凌辱モノ”であれば、犯人への復讐を行動に移すのが常だ。しかし、本作ではそんなことを考えている余裕がないほど、様々な困難がジョイを襲う。マスコミをはじめとした世間から向けられる好奇心、再会した両親との複雑な関係、特殊な環境で育った息子を育てるプレッシャー。監禁中はひたすらに守るべきだった息子が、脱出後は彼女を苦しめる一因にもなるのだ。脱出後もフィクションにありがちな展開ではなく、あくまで現実的な悩みが母親の前に立ちふさがるのである。

現実と地続きの普遍的な“母親たちの物語”

 

 つまり、監禁中・脱出後、どちらも“拉致監禁モノ”につきものの過激さではなく、現実と地続きの生々しさを表現するように作られているのである。これは、原作者・脚本を担当したエマ・ドナヒューが、普遍的な“母親たちの物語”を描こうとしたからなのだろう。

 試しに、監禁中・脱出後の状況を、実在する母親たちの様々な状況と置き換えてみよう。“部屋”での母子と監禁犯の関係は極端なものだが、経済的な役割だけを果たしつつ、暴力を振るう、いわゆるDV夫がいるような家庭の母親は同じような苦しみを抱えているだろう。あるいは、夫が妻と子をモノのように見る、冷たい家庭のケースと考えてもいい。脱出後の母親に向けられる世間の視線は、保守的なコミュニティで離婚したり、または何らかの理由で認知されない子どもを持つことになった母親に向けられるそれと同じと考えることもできる。そして、もっと身近な、日々の母親たちの子育てにおける葛藤も延長線上にあるはずだ。

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