宮台真司の月刊映画時評 第4回(前編)

宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作

「一瞬の星座を見ること」としてのアレゴリー

 戦間期に活躍し始めたフランクフルト学派のユダヤ系知識人です。彼は「アレゴリー」概念を使います。普通は「寓意/寓話」と訳されます。「寓話」と言えば、イソップ物語の『アリとキリギリス』を読んで「真面目に働かなければ」と思うような教訓話――というのは適切な理解ではありません。アレゴリー=寓意とは、「<世界>は確かにそうなっているという納得」です。そう言われれば、『アリとキリギリス』も「<世界>は確かにそうなっているという納得」を与えます。その納得が教訓として機能する場合もあるので、アレゴリー=教訓話となった訳です。

 <世界>はあらゆる全体。思えば唯一絶対神も<世界>という全体(の対応物)を表象します。全体は表象不可能。表象は<世界>の部分に過ぎず、部分に全体が対応する筈がない。だからユダヤ教もキリスト教もイスラム教も唯一絶対神を偶像化しません。偶像は<世界>の一部に過ぎないからで、偶像を通じて神を理解するのは神の全体性を弁えない証拠です。ユダヤ教では名前すらない。「ヤハウエ」とは「『私はある』である」という命題に対応するこの存在を、指し示すサイファ(暗号)。イエスは、ヤハウエが人間と交流したくて送り込んだ、表象できる存在です。

 アレゴリーも同じ。表象可能なものはシンボルで示せるが、全体は表象不可能だからシンボルでは示せない。<世界>にはシニフィアンがなく、<世界>はシニフィエになり得ない。だからベンヤミンは「砕け散った瓦礫の中に一瞬の星座を見る」という言い方をする。「<世界>は確かにそうなっている」と一瞬思われたが、言葉にしようとした途端――表象化を試みた瞬間――スルリと逃げ去って違うものになる。その意味で、「真面目に働かなければ」という教訓は、砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座自体ではなく、星座体験の際に呟かれた態度表明に過ぎません。

 まさにギリシャ悲劇です。砕け散った瓦礫の中に一瞬の星座が見えた――。<社会>というデタラメの中に一瞬<世界>が見えた――。ベンヤミンも彼が影響を受けたロマン派の表現者も初期ギリシャを参照しています。翻って問いましょう。なぜ祝祭や通過儀礼が例外なくカオス体験を経由するのか。答え。<世界>がそもそもデタラメだからです。カオスを経験して日常に舞い戻ってみる。するとその日常を奇蹟のイカダのようにして擁する非日常的なカオスの向こう側に一瞬<世界>が見える。見えた後しばらくは、人は日常を奇蹟として生きることができます。

 『恋人たち』は新聞評などで「救いのない映画だ」と言われています。最初は主人公たちが社会の中でマジガチに苦しい毎日を送り、彼ら自身がまさに「救いがない」という感覚を生きます。救いがないと思うのは、望ましい秩序立った状態を期待しているからです。だから、期待が外れて打ちひしがれてしまう。その彼らが<社会>を通じて<世界>を見る。そして<世界>がそもそもデタラメであることを見通す。<世界>の中に在るというのはそういうことなんだ、と納得する。「オレは今まで、いったい何を期待していたんだ」という言い方が近いでしょうか。

 作品に具体的に即して言えば、主人公のアツシ(篠原篤)が救われるちょっとしたきっかけとして、彼が働いている会社の先輩・黒田(黒田大輔)が、活動家時代に腕を失った経験を仲間たちの輪の中で、ふと話すというエピソードかあります。普通はわかりやすく「不幸なのは自分だけじゃない」という感じになって救われたように描くところです。でも、そうじゃない。<世界>はそもそもデタラメであることを告げ知らせる「<世界>からの訪れ」として、描かれています。「<世界>の中に自分は在る」という感覚が不意に到来した、とも言い換えられます。

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