菊地成孔の欧米休憩タイム〜アルファヴェットを使わない国々の映画批評〜 第2回(後編)
韓国ノワールはなぜ匂い立つほどリアルなのか? 菊地成孔が『無頼漢 渇いた罪』を解説
(またしても)カンヌ対策の話
何か、この連載、通奏テーマがあるみたいになっちゃいますが、本作は「カンヌ対策バッチリ映画」なんですよね(笑)。実際、「ある視点」の方に出品されてます。
以前、ホウ・シャオシェン監督の『黒衣の刺客』を紹介しましたが、そのときにカンヌ映画祭で賞を受賞するための傾向と対策のようなものがこの世には存在するんだ、という話をしました。
いわば、相撲部屋が太った子を探してくるように、カンヌが賞を与えたいような、カンヌのブランドに合った人をカンヌが探してくるのか、それとも作品側からカンヌを獲りにいっているのか、あるいはそれらの双方向的な理由なのかは分かりませんけど、米国のアカデミー賞には、まだ幅があるんですよ。
1950~60年代の頃は米国アカデミーの作品賞というのは受賞作に軽い一貫性がありました。初期はハリウッドがイチオシするスターの売り出し系とか、中期はアングロサクソンとかユダヤ系の人が作るような社会派のドラマとか、単に質の高い恋愛ドラマなどです。
それが今は結構何でもありになってしまって。というより「アメリカ映画」のジャンルが広がり続けているので、昔のようなブランディングに安閑としていられないのでしょう。
それに対して、カンヌはさすがフランスというか、まだメゾンのブランドを守る力学が萎えていません。
ホウ・シャオシェンは画面にとても中国とは思えない密林や原生林を出すことで、カンヌの「ヨーロッパ以外の森のイメージに弱い」という傾向の対策をし、河瀬直美監督の諸作品との類似性を指摘しましたが、本作もガッチガチのカンヌ向けですね。
なにせこのチョン・ドヨンは“カンヌの女王”と呼ばれていて、出演した作品はだいたいカンヌに出品されて、本人は審査員までやってるという。簡単に言えば、「韓国人で、女優である河瀬直美さん」ですよね。要するに、アジア人である自分が、フランス人から見たらどういう魅力持っているのか(ただエロいとか、綺麗とか、そういう意味ではありませんよ決して)ということを、客観的に熟知しているといいますか。河瀬と違うのは、テレビドラマや、カンヌ向きでない映画にも出ていて、コメディエンヌも、見も凍るサイコキラーも、普通の女の哀れも何でも出来る、オールラウンダーということですかね。
ただ、やや戯れた言い方をすれば、お二方とも「カンヌ顔」なんです。もっというと「カンヌ体」でもあります。ルーシー・リューはハリウッド顔のハリウッドバディですが、カンヌ顔ではない。
他にも女性監督も女優も山ほどいる中で、彼女等だけが賞を獲るということですから。善くも悪くも、賞というものは、そういう物です。
このチョン・ドヨンという人は、オフショットではニコニコしていてさばけた普通のオバさんなんですけど、映画に出ると神がかるんです。本作でも最初は「このオバさん、ちょっとキツいなー」っていう感じなんですが、刑事役のキム・ナムギルが、チョン・ドヨンを好きになっていく過程に、こっちも完全にシンクロしちゃって(笑)、途中からもう、この人が、好きも嫌いも、とにかく一回セックスしないと収まらない。というぐらいの性欲を喚起します(ホントに)。
でも、この映画が徹頭徹尾、ベタでゲスにならないよう、格調を保っているのは素晴らしく、(まあそれもカンヌ対策だろと言われれば、100%ノーとは言えませんが)、いやあよく出来てるなと思ったのは、サービスシーンである全裸が、最初に出ちゃうところです。
裸体の意味
この人の最大の見せ場=剰余価値である全裸というのを、観客が「ああ、この人の裸を見たいな。見たい。ああ、見たい」って思わせて、ピークで脱ぐんじゃ、ストリップになっちゃう。
「いやあこんな、眉毛の無い、幸の薄そうな、何喰ってるか解んないような、頭も軽くおかしそうな女の裸なんか見たくねえよ」という段階で、ドッカーンと全裸シーン(寝ている)が来ます。
スラムみたいな安アパートの一室で、絶対あんな毛布かけたくないわ。という不潔感漂う毛布と布団で、中年2人がセックス後に寝てるんですよ。ところが美しくもなんともないはずなのに、2人を銃を持って上から見下ろしている刑事の目線シーンが本当に美しい。
まるでフランシス・ベーコンとかエリック・フィッシェルの作品のような、モダンアートの中のエロティックでリアルなペインティング作品みたいに格調高いんです。2人とも体の美しさがスゴくて。これもやっぱり日本人が見せ付けられないもののひとつで。
アイドルの体は締まってるかもしれないけど、ダンスレッスンによって作られた体だから、よしんば脱いでもアスリート体型でしょうし、日本人俳優の男の体も兵役を通ってないから、やっぱジム体であって、それがアクトは言いません、それが日本なんですね。兵役で鍛えられた体っていうのは、殺傷訓練の痕跡を残しますから、韓国男は、老いも若きも全員がヤクザ役の第一関門を通過しているとも言えます。しつこいようですが、これを逆手に取った智将が、北野武監督でしょう。
『無頼漢』は社会的なメッセージは何もないし、物語の枠だけを抽出したら、Vシネマの、しかも軽めの切ない奴ですよ。身を持ちくずした女がいて、捜査中の刑事も惚れてしまう。そして自分に対して金の工面ばっかしてるが、明らかに彼女を愛している逃亡中の犯人が恋人で、どうしてもその男のことが好きだと。刑事も女のことが好きだし、犯罪者と警官との三角関係になって、結局最後はどっちも死んでしまうという。
Vシネを誹謗する気はさらさらありませんが、こんなストーリー、Vシネでやったら、主人公3人、リアルさゼロにまで下げないと演じられない筈です。