バイオレンス映画の巨匠、サム・ペキンパーの素顔ーー情熱に満ちたドキュメンタリーを観る

 「バイオレンス映画の巨匠」、「最後の西部劇監督」、「血まみれサム」など数々の異名を持つ映画監督サム・ペキンパー。その生涯を、監督の貴重な映像や音声はもとより、出演俳優やプロデューサー、知人や友人、親族など膨大な証言によって浮き彫りにしようとするドキュメンタリー映画『サム・ペキンパー 情熱と美学』が現在公開中だ。

 その代表作である『ワイルドバンチ』(1969年)のクライマックス・シーンに見られる、スローモーションを織り交ぜたアクション・シーン……通称「死の舞踏(デス・バレエ)」をはじめ、暴力描写に詩情をもたらせた監督として、サム・ペキンパーは知られている。クエンティン・タランティーノやジョン・ウー、さらには映画『マトリックス』(1999年)のウォシャオスキー姉弟など、その影響下にある監督は、没後30年が経った現在も数知れず存在する。しかし、そんなペキンパー自身の生涯は、これまであまり知られていなかった。

 1925年、カリフォルニア州フレズノに生まれたペキンパーは、海兵隊に従軍後、ドン・シーゲル監督のアシスタントとなることから、そのキャリアをスタートさせた。その後、西部劇のテレビ・シリーズの脚本家を数本務めたのち、『荒野のガンマン』(1961年)で長編映画の監督としてデビュー。長編第2作『昼下がり決斗』(1962年)で早くも成功を収めるも、脚本や予算、そして映画の編集権をめぐってプロデューサーと激しく対立することの多い彼は、『ダンディー少佐』(1965年)の興行的な失敗も相まって、その後4年間、監督の仕事を干されてしまう。

 しかし、彼の快進撃が始まるのは、それからだった。『ワイルドバンチ』、『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970年)、ダスティン・ホフマン主演の『わらの犬』(1971年)、スティーヴ・マックイーンを主演の『ゲッタウェイ』(1972年)、そしてウォーレン・オーツ主演の『ガルシアの首』(1974年)など、映画史に燦然と輝く傑作を、彼は毎年のように次々と生み出してゆく。そんなペキンパーの足跡を、豊富なインタビューによって描き出してゆくのが今回のドキュメンタリーだ。そこから浮かび上がるペキンパー自身の姿は、彼の映画同様、かなり苛烈なものだった。プロデューサーに毒づきながら、ときには役者たちをも罵倒するなど、まさに鬼監督といった風情だ。だが、そんな彼の「武勇伝」の数々を伝える関係者たちのトーンは一様に明るい。そこには、まるで西部劇の男たちのような、深い絆や連帯感があるのだ。

 無論、その中心にあるのは、ペキンパー自身の「映画に対する飽くことのない情熱」だ。本作のなかでペキンパーは言う。「私が描いているのは暴力ではない。常に人間なのだ」。彼の映画が後世に名を残しているのは、その方法論ゆえの話ではない。時代に取り残されたアウトローたちの壮絶な最後を描いた『ワイルドバンチ』がそうであったように、彼の映画には、常にある種のペーソスが存在した。失われゆく西部劇というジャンルへのレクイエム、あるいは進みゆく時代のなかで居場所を失った男たちの悲哀。しかし、それをペキンパーは静的に描くことをしない。むしろ、激烈な状況のなかで散りゆく男たちの悲哀を描き出すこと。彼が「バイオレンス映画を変えた」と言われる理由が、そこにある。そんな彼の「情熱」に、ほだされるように惹きつけられた人々の証言。彼らの口調は、ときに辛辣でありながら、結局のところペキンパーへの「愛」に溢れているのだった。

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