朝ドラ『まれ』はなぜ批判されたのか? 映像と脚本からその真価を検証

 では、物語面ではどうだったのか?

 朝ドラは、週6日×15分×6か月という長きにわたって放送されるために登場人物も多く描かれる要素も多岐にわたっているが、ほとんどの作品は女の一生を描いたものとなっている。

 『まれ』も幼少期からはじまり、学生時代、就職、恋愛、結婚、出産といった、女性が人生で出会う様々な出来事が描かれている。

 近年では様々な女性が登場しているが、朝ドラヒロインは基本的には明るくまじめな優等生だ。希も「夢嫌い」と口では言いながらも、パティシエという夢に向かっていく。

 ただ、希の行動は紆余曲折が激しく、公務員をやめてパティシエになったかと思ったら、結婚相手の都合で仕事をやめて女将の修行をしたり、自分の店をはじめたかと思ったら、妊娠して産休に入ったりと、すべての行動が行き当たりばったりに見える。また、本来丁寧に描くべき場面を省略してしまうので、一話だけ抜き出すと、実に中途半端な作品に感じてしまう。

 これが脚本上の狙いなのか、力量不足による構成力の不備なのかが、わからないため、多くの視聴者は序盤でイライラしてしまい、その印象が最後まで払拭できなかったことが『まれ』に対する批判の根底にあるのだろう。

 実は、僕も当初は脚本を評価しておらず「お話はダメだが太鳳ちゃんがかわいいからOK」という、やや消極的な動機でドラマを見ていた。

 そのため、録画で2~3週分をまとめてみるということを繰り返していたのだが、まとまった話数を連続で見ると、中途半端に見えた脚本が、実は入念に伏線を張ったドラマだとわかってくる。同時に行き当たりばったりにみえた一見わかりにくい人物描写こそが、脚本の篠﨑絵里子が描きたかった「人間の奥行き」だと気付かされる。

 例えば、希の師匠となる池畑大悟(小日向文世)は最初から最後まで口が悪く、希に対して辛辣だ、しかし、ずっと見続けていると辛辣な口調の裏側にある弟子としての希への期待や思いやりが透けて見えてくる。それは他の登場人物も同様で、最後の一か月となる9月の放送では、今まで散りばめてきた人物描写の伏線を回収している。

 その意味でも実に見事な脚本である。しかし、その力量が一般視聴者に理解されなかったのは、朝ドラというフォーマットの限界ではないかと思う。

 近年の朝ドラは、『純と愛』の遊川和彦、『あまちゃん』の宮藤官九郎、『ごちそうさん』の森下佳子といった民放ドラマで活躍した脚本家を積極的に起用することで、15分の中に民放ドラマ一時間分の密度を持ち込むようになってきた。

 『まれ』も、また物語の密度が濃く展開が速いのだが、人物や物語の一貫性がないように見えてしまう副作用が生まれてしまった。

 朝ドラは毎日放送されているため、即座に感想がSNSに書き込まれて盛り上がる。しかし、その弊害として脚本家が起承転結でいうと承や転として書いた話が、結として受け止められてしまうことが多い。

 篠﨑の脚本は、6か月を通して起承転結を組み立てたものだ。しかし、物語が終わってから語られる映画とは違い、リアルタイムの視線に常にさらされ続けているために全体を通しての評価が語られにくいのが、テレビドラマの難しさである。

■成馬零一
76年生まれ。ライター、ドラマ評論家。ドラマ評を中心に雑誌、ウェブ等で幅広く執筆。単著に『TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!』(宝島社新書)、『キャラクタードラマの誕生:テレビドラマを更新する6人の脚本家』(河出書房新社)がある。

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